ヌプンケシ131号

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市史編さんニュース NO.131
タイトルヌプンケシ
平成18年11月1日発行

◎常呂川の流れから(13)

◇明治31年(1898)の洪水〈続き〉
 明治31年は前年に続いて、野付牛に屯田兵が入植してきた年でもありました。平成10年(1998)刊行の『新端野町史』は次のように記しています。「明治三一年(一八九八)八月一九日、同年の第一便として門司を出航した東都丸は、瀬戸内海を抜けて八月三一日網走に到着した。同船には、北見屯田各兵村入植者と共に端野兵村入植の四七戸が乗船していたが、激しい風雨のために上陸できず、翌九月一日網走に上陸し、そしてわずか一晩休養しただけで、翌二日端野に入地した。同船は四日市を出航して宮城県萩浜に向かう途中でも暴風のため房総半島の館山に避難して二日間ほど停泊し、オホーツク海に入ってからも佐呂間沖でいったん錨を下ろしてシケの治まるまで一夜を明かし、翌日湧別まで引き返してここで湧別屯田兵を下ろし、そしてようやく網走港に到着しながら、ここでも風雨のため上陸を一日延期するといった御難続きの船旅であった。/この四七戸の屯田兵とその家族が、全身ずぶぬれになって『受持』の人々に迎えられ、ようやく新天地の兵屋に入ってから五日目の九月七日、八月末から降り続いていた雨はついに全道的な大水害をもたらし、各地に大惨事を引き起こしたのである。この日まで増水に増水を重ねてきた常呂川も例外でなく、午後九時半ごろ急速に水位を上げ、濁流が堰を切って野付牛原野を襲った。」下図は、その頃の端野の概略図です。
端野の概略図
 その後の状況は前号のとおりで、洪水にあった人々は次のように回顧しています。「前年の明治三〇年(一八九七)に一区に入地していた寒河江直助によれば、兵屋を捨てて小高い場所に避難し、雨が降り続く中、砂利の上で『布団かぶって震え』ながら、『これはい良いよ北海道に死にに来たかと思って心配したが』、命は助かったものの『家も家財も全部』捨ててしまったという(『屯田兵生存者回顧録』)。/同じく明治三〇年に、家族として一区に入地していた寺崎テヨの場合は、水が襲ってきたのでみんなで押し入れに上がったが、そこも危なくなってきたので、押し入れの上の方から『とうとう屋根の上に出た』。だが『もうどっちへも逃げられない』状態になっていて、みんなで屋根の上に上がったまま二日も三日も食べないで救出を待ち、兵員たちが『筏(いかだ)つくってそれに乗って炊出もらって来て助かった』という(『屯田兵』)。」
 「事態が落ち着くと直ちに調査に入った第四大隊本部では、一区宅地を中央道路沿いの高台に全面的に移転することを決定し、一戸当たり幅二〇間、奥行二五間(五〇〇坪)の宅地区画と造成に着手し、同年中に一六戸の新築を行った。翌三二年(一八九九)には一五戸の移転工事を行い、全部の移転を完了したのは同三四年(一九〇一)であった。」
 このように、この洪水は端野一区全兵村を高台に移転させる原因となったのです。
◇常呂村では
 昭和12年(1937)11月に発行された『常呂村史』では、「常呂川水害史」という項目があり、その書き出しは「常呂川は本道六大河川の一つとして知らるると共に、常呂川の名は水害を以て特に其の名を知られたり。」とあります。昭和12年の時点で、常呂川の洪水は全道的に有名だったことがわかります。なお、同史には「本道六大河川」についての説明がありませんが、流路延長で道内主要河川に順位をつけてみると、1.石狩川 268.2キロ 2.天塩川 256.3キロ 3.十勝川 156.3キロ、4.釧路川 154.1キロ、5.鵡川 135キロ、6.常呂川 120.2キロ 7.沙流川 103.8キロ、8.網走川 93.6キロ 9.渚滑川 83.6キロで、常呂川は6位です。つまり、常呂川を入れて、上位が六大河川ということなのでしょう。
 明治31年の常呂村の惨状について、『常呂村史』は次のように書いています。「明治二十八年土佐団体二十四戸の移住を初めとし、同三十年岐阜原野へ十二戸の入地あり、同時に大分団体は川沿九号より十四号附近に約二十戸移住点在して、懸命開拓に努力し開村の緒に就きたり。然るに翌三十一年八月三十一日より九月十一日迄十二日間々断なき豪雨のため常呂川の大増水となり、当時は築堤護岸の設備なかりし為め忽(たちまち)にして濁流滔々と渦き土佐団体の一部僅か十二三戸を残して原野一帯泥海と化し、殊に岐阜原野並に川沿方面に入地せる大分団体の如きは、丈余の浸水に床より屋根或は大木に頼りて救助を求むるの悲惨事を現出するに至れり。然し此の激流には全く救助の方法もなく只茫然として施す術もなく只管(ひたすら)減水を祈るのみ其惨状言語に絶したり。此の損害は当年の収穫物全部を失ひ、殊に移住後日尚浅く何等の貯蓄なき住民は僅かに土佐団体一部の収穫を罹災民全体が一時の頼りとして、他は悉(ことごと)く救済資金の貸与に依り悲惨ながらも復興の途を講じたり。此の事畏(かしこ)くも天聴に達し片岡侍従御差遣あり、罹災者救恤として一戸金十七銭づつ御下賜金を賜り、罹災者は勿論村民一同其聖恩に感泣しつつ愈々開拓の志を堅め只管業務に精励せんことを誓ひたり。」
 常呂でも土佐団体の一部を除いて、開拓地は泥の海に沈み、激流で全く救助の方法がなく、被災者は屋根の上や大木に掴まって、ただ水がひくのを待つしかなかったようです。
 当時は社会保障による救済措置などが全く考慮されなかった時代でしたから、天皇から見舞いのわずか17銭の下賜金でも、被災者には感泣するほど非常にありがたかったのです。
 下流の常呂では明治44年(1911)7月にも洪水があり、その原因の一つが常呂川を利用して流送された木材の止場にあったので、農民の強い要求で止場を除去する非常手段を取り、2万余石の木材を海に流しました。当時の被害総額は18万円だったそうです。これと比較にならぬほど甚大な被害を出した大洪水が大正8年(1919)にありますが、次号でレポートします。(続く)

《中庭だより》
☆10月19日、釧路市地域資料室から同月11日発行『釧路市統合年表』(A4・延276ページ)が寄贈されました。釧路市・阿寒町・音別町の合併一周年記念に、お互いの歴史をよく知合うために各年表を統合したものです。今後の当市編纂事業の参考にさせて頂きます。
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