ヌプンケシ206号

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市史編さんニュース NO.206
タイトルヌプンケシ 
平成23年1月1日発行

旧年中はご愛読ありがとうございました。本年もよろしくお付合いください。うさぎ

 


 

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(1)
◇落語『子なさせ地蔵』
 昨年、平成22年(2010)8月17日付『北海道新聞』に「端野の助産師モデルの落語/『子なさせ地蔵』地元で披露」「大御所・三遊亭金馬さん11月に」という見出し記事があったのをご記憶の方もいると思います。その記事には次のように書かれています。
 「モデルとなったのは助産師の桝川ツネさん。1897年(明治30年)に屯田兵の息子と共に山形県から入植し、町内外のほとんどのお産を請け負ったという。/桝川さんが1926年(昭和元年)に亡くなった際に、地域住民が感謝の気持ちを込めて『子生佐世(こなさせ)地蔵』を建立。『子生佐世』とは、子どもが生まれるのを助けるという意味。/地蔵は桝川さんの親族に引き取られたが、その後、地域住民が新たに『子育て地蔵』を端野町一区の国道沿いに建立し、今もまつっている。/78年に道内のラジオ局から、北海道にちなんだ落語を作ってほしいと依頼を受けた金馬さんは、開拓期の端野の逸話を集めた旧端野町出版の『開拓夜話』(66年発行)を読んで桝川さんの活躍を知り、演芸作家と共に『子なさせ地蔵』を作った。/桝川さんの話を基に、網走監獄の脱獄囚がお産を手伝ううちに改心する人情話で、金馬さんはその後も十八番の一つとして高座で披露している。/今年6月、端野町内の住民グループ『ふるさとの歴史を語る会』の会員が『子なさせ地蔵は端野の助産師がモデルらしい』と知り、金馬さんに端野での落語会開催を打診したところ快諾してくれた。」
 この落語会は「ふるさとの歴史を語る会」(会長寺崎博会長)の主催で、11月6日午後6時半から端野町公民館で300席を、ツネさんのご子孫をはじめとする市民の方々で埋めつくされ、盛況に開催されたことも11月9日付『北海道新聞』で報じられています。
 お産婆さんのことを青森の方言で「コナサセ」というそうで、「子をなさせる」という意味だそうです。新年は、そのお産婆さんのことを特集してみたいと思います。

開拓夜話表紙◇『開拓夜話』の「子生佐世地像」(原文のまま)
 端野町長であった中沢広氏が、昭和41年(1966)12月に発行された『開拓夜話』の「子生佐世地像」の書き出しは次のとおりです。
 「桝川ツネさんは山形県北村山郡大久保村の生れだった。十五才の時に講習を受けて産婆さんの免許を貰ったということだ。ツネさんの家は三代続きの産婆さんだということで、助手のようにして、母親に連れられて歩いたので、年に似合わず実地に長けていた。/明治三十年に八次郎さんの家族として一区に入ったのだが、七十六才で亡くなるまで、雨が降ろうが、大雪になろうが、呼びに来られるとどんなときでも、夜昼いとわずに出かけて行った。/死ぬ三日前に来た人があったが、その時は『せっかくのことだ、見てあげるから私の側に寝なさい』といって、起きることの出来ない婆さんは、寝たまゝ手をのばして産婦の腹を撫でながら『あゝ心配はいらんよ!』『赤ん坊も丈夫に育っているし、位置も良い。後三日と待たずに生れるでしょう。』といって帰えしたら、その通りだったということである。文字どおり死ぬまで産婦の世話をして一生を送った婆さんである。/婆さんの死んだのは昭和元年だから、それからもう四十年になる。葬式に参列した人々の中にはたくさんの婆さんの子がいた。婆さんに取りあげられた子ども達である。それ等の人が期せずして婆さんへの恩返えしにと話を纏めて作ったのが子生佐世地像尊である。」(以上、原文のまま)
 この「子生佐世地像」の後段で記述されているのは、明治38年(1905)の2月、日露戦争で夫が出征中、妊婦が臨月なのに義母に気兼ねして無理を重ねて難産になり、吹雪を突いてツネさんが来た時には全くの手遅れで、続いて軍医が来て妊婦だけでも助けようと処置中に亡くなるという全くの悲劇で、とてもこのままでは落語になるようなお話ではありません。それで金馬師匠は、網走監獄の脱獄囚が改心する人情話「子なさせ地蔵」を創作されたのでしょう。
◇『新端野町史』では・・・
 平成10年(1998)10月に発行された『新端野町史』では、次のように紹介されています。
子生佐世地蔵(昭和55年)写真 「
開業助産婦/北海道の開拓を困難にしたものに、医療面の不備はもちろんであるが開拓に携わる人々の健康に対する不安があった。そんなとき、女性にとって大きな支えとなったのは産婆の存在である。慣れない土地で、お産の介助はもちろんのこと、家庭の日常的な健康指導から育児相談など、幅広く開拓地の女性たちの相談相手として活躍したのが当時の『産婆さん』であった。/『産婆』は、昭和二三年七月に制定された『保健婦、助産婦、看護婦法』により『助産婦』(現在は助産師−引用者)と呼び名が変わった。/端野村の産婆の草分けは、一区に屯田兵として入植した舛川八治郎の母親つねである。つねは嘉永五年生まれ、生家は三代続いた産婆の家柄であった。一五歳で産婆の資格を取り、四五歳のときに端野にやって来た。以来大正一五年(一九二六)一二月に他界するまで約三一年間、二〇〇〇人余の赤ん坊を取り上げている。/『ふる郷百話』によると、『この開拓地にとって、かけがえのないただ一人の産婆さん』だった。『暴風雨、猛吹雪の夜でも、呼びにくれば飛んでいった。彼女の世話になった人は、美幌、置戸、留辺蘂にまでおよんだ』という。そんなつねに対して、大正一五年二月二五日一区の婦人たちが感謝の気持ちを込めて、子生佐世地蔵を建立したが、つねはその年の暮れに他界した。お地蔵さんは現在、孫に当たる舛川輝子宅の小堂に安置されている。」(左上の写真は『新端野町史』掲載の子生佐世地蔵です。)
 さて、前掲の新聞記事と『開拓夜話』では姓が「桝川」と木偏がついていますが、『新端野町史』では「舛川」となっており、お名前も「ツネ」と「つね」で違います。息子さんの名前も『開拓夜話』では「八次郎」で、『新端野町史』では「八治郎」になっています。
 混乱があるので、少し調査してみました。屯田戸主の息子さんですが、大正15(1926)年9月発行の『端野村誌』では「舛川八次郎」とあり、昭和40年(1965)12月発行の『端野町史』でも同様でした。それで除籍で確認したところ、「舛川八治郎」が正しいお名前でした。生年月日は明治10年(1877)3月2日で、死亡年月日は昭和19年(1944)12月29日でした。
 肝心のお産婆さんの方は、「父八蔵妻」「ツネ」とあり、その生年月日は嘉永5年(1852)5月10日、死亡年月日は昭和元年(1926)12月27日となっていました。享年は74歳でした。別に間違い探しをしているわけではないのですが、「舛川ツネ」が本当のお名前でした。(続く)
《中庭だより》☆新年いかがお過ごしですか。筆者は年々本を読むスピードが遅くなり、本をツンドクが多くなりましたので、枕元にある本を手当たりしだい読む読書三昧の寝正月です。本年も少しでも真実に近づけるように努力したいと思っていますので、ご協力をお願いします。
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