ヌプンケシ207号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.207
タイトルヌプンケシ 
平成23年1月15日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(2)
◇野付牛のお産婆さん、那須ますさん
 前号で取上げた舛川ツネさんは、端野を中心に活躍されたお産婆さんでした。
 北見自治区の野付牛では、那須ますさんが有名であったようで『北見市史』年表編には「1933年/昭和8年 4.1 野付牛最初の産婆那須ます死去、91歳。(那須嘉一助役の母)」と書かれています。なお、那須助役の名前は「嘉市」が正しく、「嘉一」は転記ミスのようです。
 その基になっている昭和8年4月1日付『北見毎日新聞』には「けふ那須助役さんの/母堂逝く/九十一才の高齢で/野付牛最初の産婆」との見出しで、次の記事がありました。
 「野付牛助役の那須嘉市氏の母堂ます子は今年九十一歳の高齢で/近来進退意のようにならなかつたが此五六日来老衰頓に加はり本日午後〇時十五分ついに帰らぬ冥路に旅立た ます子は天保十四年みづのと/卯歳 岐阜県武儀郡洲原村に生まれ 明治三十年野付牛に屯田を置いた時に移住した方で 当時三十二方里の野付牛に只一人しか居らない野付牛最初の産婆であるから其の頃から生れた/人々は多くます子の手に依つて助産されたのである 性来強健で而も剛腹よく人を面倒見た方であつた 訃報と共に/一族友人馳せ参じ葬儀の準備中で四月三日午後一時自宅に於て告別式を行ひ仏式にて高台寺に送ると」
 除籍を見ると、ますさんの生年月日は「弘化元年(1844)11月7日」とありましたが、天保から弘化への改元は同年12月2日ですから、「天保15年」の方が正しいことになります。つまり、江戸時代の「天保15年(1844)11月7日」がますさんの正確な生年月日ということです。

◇ますさんが、お産婆さんになった経緯
 那須ますさんは、次男の那須安太郎氏を屯田戸主として明治30年(1897)に野付牛の二区(現在の北見駅付近)に入地しました。単純計算すると入地当時、52歳だったことになります。
 『北見市史』編集委員長・鈴木三郎先生は、『屯田兵名簿 第二中隊A30年兵』を作成した際、ますさんのお孫さん、那須忠男氏(明治39年9月10日生れ)から次の聞取りをしています。
産婆業那須ます ますさんは「入地中、船中で西岡安子(江頭寿の妻)の出産を指揮官の要請に応じて出産さす。安産の由。この事から産婆の免許状下附さる。92才亡/出産のお礼には、おこわ・餅が一番多く、その他手拭、ネル等の綿類が送られた」。 大正時代には、忠男氏が行灯をさげて、ますさんが産婆に行く先の道案内をしたようです。
 ますさんの場合は最初から産婆の免許を持っていたわけでなく、本州から網走にくる船中での助産の腕を認められて、後日免許状を貰ったということのようです。
 明治45年(1912)3月発行の『北見の実業』には、右に提示した発刊祝広告で、三男「那須幸太郎」に並んで「産婆業 同 ます /北海道は殖民地に候へばドシドシお子様方を設けなさい 丁寧におとりあげします かしこ」という宣伝文があります。なお、幸太郎氏は大正6年(1917)9月発行の『北見國野付牛要覧』に、大通東4丁目にあった馬車製造業「那須幸太郎工場」の「場主」として写真広告を載せています。ますさんもそこで産婆業を開業していたのかもしれません。
◇那須嘉市氏のこと
 今特集の本筋から離れますが、晩年のますさんを面倒みていた野付牛町助役「那須嘉市」氏について、既刊市史にはまとまった記述がありませんでしたので、関係資料を探してみましたら、昭和32年(1957)10月発行の『躍進北見市の全貌』に次の略歴が載っていました。
 「旭川中学卒業後 野付牛、斜里村役場筆生を経て大正九年津別村長となり、十二年野付牛助役に迎えられ、十年余在任ののち虻田町長に転出、戦後一時追放されたが現在同町長。」
 また、昭和34年(1959)9月5日付『家庭北見新聞』の連載特集「思い出の手帖」で、那須虻田町長へのインタビュー記事がありましたが、間違いもあるので要点だけ挙げてみましょう。
 「私は西小学校を卒業してから中学へ進もうと思つたのだが、野付牛には、まだ中学校はなかつたので親父を口説いて、東京の学校にいれて貰つた」
 「中学を卒えるころになつて、急に海外に雄飛してみようという希望が湧いた。これは、知り合いの学校の先生の感化にもよるが、私自身も、ひとつ南米へ渡ってみようと考えるようになつてブラジルへ行く決心してね。あちらの様子を書いた本を読んだり、語学を勉強していたが、ちよつとからだを悪くして、中学を出ると間もなく、野付牛町へひとまず帰えつた。私の南米行の話をきいた親父が、なかなか『ウン』といつてくれない。そのままズルズルになつて、遊んでもいられないというわけで、町役場に入つたが、それがそもそもの自治体へ入る動機さ。」
 「虻田村長に任命されて赴任した。そのあと野付牛町長になつた岡崎(関崎が正−引用者)不二夫氏が病気で急死したあと、後任町長の選出に当つて、町会は俄然活気を帯び、那須さんを町長に迎えようとする派と、反対派が対立して、(中略)結局、那須さんは周囲の空気を察知して、固く断つたので、ついに故郷に錦を飾ることが出来なかつたそうだ」
 『躍進北見市の全貌』では「旭川中学」、『家庭北見新聞』では「東京の学校」とあり、どこの中学かは現在分かりませんが、明治時代の旧制中学進学は相当資産のある家庭の子弟にしか許されませんでした。屯田兵の家族で、四男の嘉市氏が親元を離れて中学に進学できたのは、ますさんが産婆業で授業料・生活費等を工面したからと思われます。それで助役になって野付牛に戻ってからは、一番世話になった嘉市氏が母親の面倒を見ることになったのでしょう。
 虻田町が合併した後の洞爺湖町総務課の方からご教示頂いた、那須嘉市氏のその後の履歴等は次のとおりで、残念なことにどこの中学卒業かなどの学歴は不詳とのことでした。
  生 年 月 日  明治22年(1889−引用者)5月15日
那須嘉市氏写真  死亡年月日  昭和37年(1962−引用者)5月17日
  経     歴  S8.5.8    〜 S21.11.7 虻田村長〜町長
            S22                 伊達陶器(株)経営
            S29.12.22 〜 S37.5.17   虻田町長(現職中死亡)
  公
  等  S29.12.22 〜 S37.5.17  虻田漁業協同組合長
           S31.7    〜  S37.5.17   洞爺湖温泉観光協会長
 昭和38年(1963)10月25日には、永年の功績が認められ、虻田町名誉町民になりました。
 昭和37年5月18日付『北海道新聞』には、「那須嘉市氏(虻田郡虻田町長)/十七日午後五時七分、虻田町公宅で脳出血のため死亡、七十三歳。昭和八年から同二十一年まで、二十九年十二月から連続二期町長に当選、自治功労者として勲六等瑞宝章、自治功労章などを贈られている。」との死亡記事がありました。上の写真は昭和37年5月発行の『虻田町史』のものです。那須氏は一時公職を追放されたとは言え、幸福な73歳の生涯だったと言えるでしょう。(続く)
《中庭だより》☆筆者は何もしない、本も結局5冊しか読了できない怠惰な寝正月で、うかうかしているうちに新年も半月が経過してしまいました。本年も仮題『北見の歴史案内』の執筆を始め、やるべきことはたくさんありますので、よろしくご鞭撻、ご協力をお願いいたします。
NO.208へ