ヌプンケシ210号

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市史編さんニュースNO.210
タイトルヌプンケシ
平成23年3月1日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(5)
◇北海道の産婆教授
 北海道の開拓成功の可否の指標の一つは人口増であったわけで、『北の命を抱きしめて』から次に引用するとおり、当然産婆も重要な監督対象となり、産婆教授も始まりました。
 「『開拓使事業報告』によれば、札幌本庁では明治2年移民の堕胎を禁じ、函館支庁でも明治4年10月、堕胎を禁ずると共に、町役人が産婆たちに仲間を結成させて取締りにあたった。
 開拓使の産婆教育は、明治11年『開拓使産婆教授科目』の布達に始まる。これは従来営業者および新たに開業しようとする者に対し、専門的な学術を教授しようとするもので、授業料は無料であった。札幌病院においては明治11年9月から、函館病院でも翌12年5月から『産婆教授所仮規則』を定めて産婆教授が開始された。
 明治11年7月、札幌本庁では、就学志願者を募ったが、屯田事務局を通して山鼻・琴似両兵村の内からも出願を求めた。(中略)産婆も屯田兵授産策のひとつに考えられていたのであろう(新札幌市史 第二巻)。明治12年1月段階で屯田兵家族と確認される産婆教授受講者中の『屯田兵母・養母』などは5人にのぼる。」
 「根室支庁における産婆教授については、『根室県引継書類』(A−7−2−1626)に、明治11年3月から『産婆教授科目』により病院で教授が行われたと記録されているが、詳しくは不明である。」
地域史研究はこだて表紙 函館における産婆教授については、平成10年(1998)9月に函館市史編さん室から発行された『地域史研究 はこだて』第28号の北隅静子さんの論文「近代初頭における北海道の助産婦(産婆)制度の確立過程と産婆の実像」が詳しいので、参考に引用します。
 明治12年(1879)5月20日実施された授業状況については「五月二十二日付けの函館新聞に、『今度産婆を集めて夫々授業を始められ 一昨日は地蔵町二小区扱所にて病院より医員鳥潟・田沢の両氏が出張して教授され又今日は台町の検番所にて教授さるゝ由然るに中には大きな心得違いをなし産婆の試験だと云つて出頭しない者もたくさんある』と、記されている。」「授業内容については、函館病院の医師によって先に述べた『朱氏産婆論』を教科書として実物模型等を使用して行われている。また教授方法は『専ラ手術及産婆ノ務ムヘキ本文ノ点ヲ口授セシ』と、当時の産婆は読み書きの出来ない者もおり口授によって授業が行われている。」
◇三県時代の産婆取締規則
 三県時代とは北海道が函館・札幌・根室の3県に分割された、明治15年(1882)2月の開拓使廃止から明治19年(1886)1月の北海道庁設置までの間のことで、当地は根室県に属しました。
 その「三県時代に入ると、各県それぞれが産婆資格を定め営業者を把握し統制するために、産婆取締規則が設けられた。 
 明治16年(1883)10月9日、札幌県は『産婆営業取締規則』を布達し、『産婆営業セント欲スル者ハ、試験ヲ経免許証ヲ受クルヘシ。尤モ医学校卒業証若クハ産科医師就学ノ証書ヲ得タル 者ハ、試験ヲ要セス之ヲ許ス』こととした。また、翌日づけで従来産婆営業者は試験を要せず営業を許可する旨の布達が出され、出願期限は10月31日限りとされた。しかし布達が徹底しなかったのか、後に出願期限は11月末日まで延期された。
 その11月には、多数の従来産婆営業者が出願し、免状を付与された。(後略)」ただし「明治8年以来石狩・厚田両郡で産婆業を営んでいた千島寿庵が産婆営業を出願したが、男子たるを
もって許可されなかった。明治11年に秋田県が男子の産婆営業について衛生局に照会した際、許可されなかった例に倣ったのである。」(『北の命を抱きしめて』より)
 「札幌県では明治18年9月『産婆営業取締規則』を改正し、『産科医無之町村ニ於テハ、郡区長ノ具状ニヨリ試験ヲ要セス、其町村ヲ限リ、営業ヲ許可スルコトアルヘシ』その他の条項を加えた。産婆についても限地開業を認めざるをえないほど、まだ住民の必要を満たせない状況であったということである。(中略)限地開業営業許可願はほとんど聞き届けられている。
 函館県では明治16年5月、根室県でも同年8月にそれぞれ『産婆営業規則』『産婆取締規則』が定められた。函館県では『産婆ハ医学校卒業証書、若クハ産科医師就学ノ証アル者ニ非サレハ、営業スルヲ許サス』と定め、また、従来営業者には規則発効の7月1日までに免許開業証を出願する特例を認めた。
 根室県では『産婆ハ内務省ノ免許ヲ得タル者、及ヒ他府県ニ於テ免許ヲ得従来開業ノ者、并ニ病院又ハ産科医等ノ伝習ヲ得タル証跡アル者ニ非サレハ、営業スルコトヲ得ス』と定めて、開業免状を持たない者には管内営業を禁じた。また、僻遠の村落でこの規則を実施し難い場所では郡役所に適宜な取締りを伺わせることにしている。根室県では規則制定の当初から限地開業産婆を認めたのである。」(『北の命を抱きしめて』より)
◇北海道庁時代の産婆規則、産婆免許規則
 「産婆の取締りについて、全道一律の規則が施行されるのは、北海道庁時代に入った明治22年5月、『産婆規則』が制定されてからであった。同規則では産婆は17歳以上の女子で『産婆講習所ノ卒業証書ヲ有スル者、医師ノ講習ヲ受ケ産婆ノ業ニ堪ユ可キ証明書ヲ有スル者、府県ニテ産婆ノ免許ヲ受ケシ者』とされている。同年9月には『産婆講習会規則』が制定された。その講習会について詳しくは不明であるが、明治27年9月には公立札幌病院内に私立産婆講習所が開かれ、継続的に産婆養成を行っていた。」(『北の命を抱きしめて』より)
 平成15年(2003)8月、札幌女性史研究会発行『女性史研究ほっかいどう』創刊号所載、北隅静子さんの論文「近代前期北海道における産婆の実態」によると、「一八九七年(明治三〇年)四月北海道庁令第一九号による産婆免許規則が新たに制定され(同年六月一日施行)、一八八九年(明治二二)第三二号庁令の産婆規則は廃止された。産婆免許規則は、第一九条まであるが産婆免許を受けるための試験に関するものが七か条まである。受験資格については、『満一六年以上ノ女子』とし、試験科目を六項目に定め、試験問題を『毎科二題トシ應答時間ハ筆記ハ一問二時間以内口答ハ一時間以内トス』とし、『試験ハ毎年五月・一一月ニ於テ挙行』と定めている。これにより産婆は試験を受け合格しなければ産婆免許の交付を受けることが出来なくなった。しかし、先に述べた限地産婆に関しては第一〇条が札幌県時代の条例を踏襲した上、分娩介助の経験を審査し無試験での仮免状交付を規定している。」そうです。
 明治30年(1897)6月に端野・野付牛に入地した舛川ツネさんと那須ますさんには、開墾労働で試験を受ける余裕も何もなかったでしょうから、「郡区長の上申書によりその町村を限り営業を許可する」「限地産婆」として仮免状の交付を受けたと見て間違いないでしょう。 (続く)

《中庭だより》昨年放映された福山雅治主演の大河ドラマ『龍馬伝』の影響で、坂本龍馬の蝦夷地開拓構想が見直され、何冊も関連本が刊行されました。その関係で北光社と坂本直寛に関する問合せも多くなりましたが、直寛が当地にいたのは四か月ほどで史料は全くありません。
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