ヌプンケシ8号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.8
タイトルヌプンケシ
平成13年9月17日発行

◎9月3日、市史編さん事務室正式開設
画像うさぎ 先にお知らせしたとおり、9月3日、本庁別館1階に市史編さん事務室を正式に開設しました。主幹1名と臨時職員2名での出発です。商売道具のコピー機も入り、随時貴重な資料の複製が可能になりました。
 4日には、旧議場の屋根裏部屋で汗を流して既刊『市史』の在庫調査を敢行しました。 
 5日には、北網圏北見文化センターに保管されていた、前回北見市史編集委員長(故)鈴木三郎氏の資料類を事務室に運び込み、現在その整理に臨時職員2名があたっています。室内に資料が溢れ、庶務課が市史用に用意してくれた書架5本は、それだけで満杯です。 それにしても、鈴木先生が研究された分野の幅広さには驚かされます。また、膨大なノートに丹念に記録されている事にも、畏敬の念さえ覚えます。先生が命を削って、遺された資料類を、市民の財産として利用して頂けるように、整理を図っていかなくてはなりませんが、それだけでも大事業です。何はともあれ、具体的に仕事を進める段階になりました。今後とも、市民の皆様のご支援をお願いいたします。

◎市史こぼれ話 
◇謎の遊郭予定地をめぐって
画像明るいまち ニュース第6号に大正時代の市内略図を載せ、そこで三楽町あたりに遊郭予定地があったことをお知らせしましたが、先日寄贈のあった『1996年 北海道社交飲食環境衛生同業組合北見大会記念誌』を見ていたら、次のような記述に出会いました。
「明治末ころ野付牛にはハッカ取り引きの行商が多く訪れ、にぎわっていた。一方、宿屋の支払い、飲酒、風俗にからむトラブルが多かった。1912年(大元)市街地の戸数が 750戸以上になり、料飲店業種らが、一定の敷地を申請した。/このころ住民の間に遊郭の設置を望む声が出た。道庁は遊郭を漸次廃止の方針を示唆し、料理店の集合を指導したが、翌年野付牛同志会は通常総会で一級町村制施行、殖民道路の開削などのほか、遊郭の設置を陳情することを採択した。/1916年(大5)北海道長官が野付牛に訪れた際に、市街有志が遊郭設置の陳情をした。一方、同年野付牛支部婦人矯風会が設立、ピアソン宣教師夫人を会長に、遊郭設置の反対運動を始めた。その後、予定地が旧市街地に近い『三楽園』(三楽町)に内定したことで一転、『稲荷小路』料亭経営者らが反対。遊郭設置の運動は自然と立ち消えとなったという。」(74ページ)
 第6号で書いたとおり、最初は山下町に遊郭を設置しようとしたら、旧市街地の料飲店主たちが反対したのに、今度は三楽町となると「梅乃家」「花月亭」など「稲荷小路」料亭経営者らが逆に反対したと言う、折角の興味深い内容なのですが、この話がどこに出ているのか、もしくは誰から取材したのか明示がなく、市史担当としては残念です。

◎市民のご質問から
 市民の皆様から市史の内容について質問のあった事項について、担当として回答したものを、今号から順次報告していきたいと思います。
◇ノツケウシに野付牛という漢字があてられたのはいつか。 画像じょうろがた花瓶とひまわり
(問)ノツケウシ村が「野付牛村」と漢字に改められたのは、明治8年5月24日(『北見市史』年表編)ですか、明治9年9月(『北見市史』下巻 109ページ)ですか。  
(答)市史の年表編を見ますと、明治8年の項に「5.24 常呂郡の各村、カナ地名を漢字に改め、野付牛村生まれる。」とだけ記載されています。ここでも、何を根拠にこの年月日が出てきたか不明で、利用する人に対して確かに不親切だと思いました。
他に参考になるものはないか、調べてみましたら、平成10年10月に発行された『新端野町史』の年表の同年月日に「根室支庁布達により北見国常呂郡下に7か村を置く。 
常呂、鐺沸、太茶内、手師学、少牛、野付牛、生顔常」とありました。どうも、この 根室支庁布達が根拠のようです。
 また、『角川日本地名大辞典1・北海道』上巻1138ページ野付牛の項に「明治8年からは野付牛村と表記(開拓使事業報告)」とありますから、明治8年に漢字になったと見て間違いないでしょう。ただし、『オホーツクへの道/中央道路百年記念誌』 190ページには「明治5年、管内にカナ字を用いた村、36村が創設された。8年3月には漢字に改められたが」云々と書いてありますので、正確にはもう少し調査が必要で、今後の宿題とさせて頂きたいと思います。
 次に明治9年9月というのは、地誌『北海道志』(上)に載せられた「北海道大小區畫沿革表」に「明治9年9月定ム」とあることを根拠にしたものと見られます。
 『オホーツクへの道/中央道路百年記念誌』によると、「この大区・小区・区画化の事業は、本州府県下では、当初、政府が、廃藩置県後の近代的集権国家形成の一環として明治4年4月戸籍法を制定し、5年に入って戸籍編成に着手、その時の戸籍簿の区画単位として進めたものであった。」「ところが北見国では、大区・小区が制が実行されたのは9年9月であ」り、「網走地方では、8年のアイヌ名の戸籍簿、9年のアイヌ名を改めさせ和名の苗字を付けさせた戸籍簿が作成されたことが知られる。」 (199ページ)とあるように、戸籍簿の区画単位として野付牛村が確定したのが明治9年9月と見るのが妥当のようです。画像とんぼ
《中庭だより》画像お手紙
☆市史編さん担当のポストができると、市民の皆様からこれまで疑問に思っていたことがドッと寄せれるようになって、担当も知らないことばかりで悲鳴をあげています。でも、今ある資料で可能な限りお答えしたいと思っています。よろしくお願いします
☆自宅に郷土に関係する資料を集めた文庫を開き、あらゆる分野に造詣の深い伊藤公平さんに、臨時職員として市史編さんの実務をお手伝い願うことになりました。早速、鈴木三郎先生の資料の整理をして頂いていますが、知識ある心強い味方を得て、市史編さん担当としては大変助かっています。

画像ねこ

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