ヌプンケシ153号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.153
 タイトルヌプンケシ
平成20年10月15日発行

馬場酒造店のこと(8)

◇出征記念写真
出征記念写真 日中戦争で年毎に戦没者も増えていきました。『北見現代史』で、北見の戦没者数を見ると、昭和11年(1936)が2名に対して、日中戦争が始まった12年には12名、13年には14名、ノモンハン事変のあった14年には40名になり、出征兵士で白木の箱に入って、駅頭に帰還してくる者が目立つようになりました。戦没者がこれだけいたということは、傷病兵はこの数倍以上いたと考えることができます。
 寄贈写真の中にも、この出征兵士を見送る記念写真が3枚ありました。一つは3条東1丁目で整骨院をしていた鴫原伊男治のもので、昭和9年(1934)12月発行の『北見大観』によれば、彼は元々陸軍の獣医で、野付牛では野付牛中学校柔道教師、野付牛警察署柔道教師、消防組常備部長、在郷軍人会野付牛分会副長を歴任、将校として率先して戦争へ行く立場にありました。
 二枚目は、留辺蘂の木材商であった斎藤幹正を写したもので、自宅と石蔵の前の道路に「祝陸軍砲兵少尉 齋藤幹正」という幟が何本も立ち、本人は颯爽と将校の軍服に身を包み、笑顔で記念写真に納まっています。
 筆者が見て一番気になったのは、上の写真でした。前述の2枚には、馬場氏の姿が見えるのですが、これにはありません。馬場酒造店の従業員が出征のために帰った故郷から、昌久氏あてに送った写真かも知れません。みすぼらしい家の前で、年老いた両親と小さな子ども達、親族、近所の人々。それらの中心にいる出征兵士、平田幸治の表情も心なしか不安げに見えます。焼夷弾の実演の写真彼には家族の今後の行く末など、色々と思い悩むことがあったのでしょう。戦死する率の高い前線に立つ下級兵士であった彼は、果たして無事に故郷へ戻ってくることが出来たのでしょうか。
◇銃後の守り
 男達が中国戦線に動員されるに連れて、国内では人手が足りなくなり、いやでも女性の力を頼りにせざるを得なくなりました。その一例が、左の写真です。これには「焼夷弾の実演の写真です。二条通りの入口の所です。」と裏書があります。警防団では防空演習の一環として焼夷弾の消火訓練もあったようですが、実際の空襲で投下された焼夷弾は町内会のお母さんたちのバケツリレーの水などで消えるような物でなく、全くこうした訓練は無意味だったようです。それどころか、米軍爆撃機の無差別爆撃下で訓練どおり真面目に消火活動をした人たちは避難が遅れ、反対に犠牲者を増やす結果になったそうです。
 この他にも、モンペ姿のお母さん達90人以上が、2列横隊で農地に整列、指示を聞いている写真があり、裏には「野付牛国防婦人会 第六班 玉葱掘り」と書いてあります。
◇太平洋戦争開戦以後
 昭和16年(1941)12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争が始まり、中国だけでも大変なのに、無謀にも米英等を相手に戦線を拡大したのでした。その後の経過は、読者の皆さんもご存知のとおり、当初は連戦連勝していたものの、次第に戦力を消耗して、敗戦時には国力も尽き、国民への生活物資の供給すら儘ならない経済状態になっていきました。
 さて、馬場昌久氏の動向については、いつ野付牛町を離れたかをはじめ、はっきりしたことは何も分りません。ただ、北見市の『昭和17年事務報告』に褒賞の項目があり、前回紹介した野付牛神社造営費として1万円寄付したことに対して、昭和17年1月14日付けで褒賞状が下付されたことが記録されていますので、その頃はまだ野付牛町にいたことは確実でしょう。
 しかし、一番最初に紹介したとおり、当地を離れてからの昌久氏のことは、ご遺族も何も知らない状態で、軍需工場についても当方の調査でも横須賀にあった可能性が見えた程度で、戦中、戦後、どのように昌久氏が過ごしたか、具体的に紹介できる資料は現在全くありません。ただ、戦後に炭火アイロンを製造したそうですから、その工場は何とか爆撃を受けなかったようです。敗戦の年には、昌久氏も51歳になっていました。
 いつの時点か不明ですが、昌久氏は鎌倉の家や工場をたたみ、郷里の武生市(現在の越前市)に帰りましたが、その間に長男の俊久氏は慶応義塾大学医学部に進学、昭和29年(1954)3月に卒業しましたから、その学費を負担できる十分な資産は手元に残った、ということでしょう。
◇馬場昌久氏はまれな例
 昭和46年(1971)12月発行の『北見の今昔』に、古老の思い出が次のように記されています。
 「北見は妙な町で、少し成功すると他に専従する人が多い。(中略)外に出た人は大方立派な人で、而も大体が正義感の強い善良な人が多いようだ。その一例を記せば、山本文吉、皆川愛次郎、新井宇太郎、逢沢達二、荻丹栄、岡本猪千代、山口顕、矢武伊太郎、木方敬一、浅賀仙次、馬場昌久、片桐弥伝次、佐藤誠一、有田熊誠、千葉兵蔵、大野一三、立川栄作、星千代吉、畑野福太郎、貴田岡照見、加藤伊三吉、ピヤソン夫妻、児玉洋食主人、小町先生、田中洋物主人、植松定助、岸山平作、阿木武兵衛、鴫原伊男治、(その他夜逃げもある)これ等の人々は名あり功ある人々である。北見が中学建設やその他で困っていても第二の故郷北見に対してなんのことはない、馬場昌久(北の天醸造元)が少し町に寄附した位のもの(後略)」
 ここに書かれてあるとおり、北見で一旗揚げて成功し、財をなして故郷に錦を飾った人はたくさんいたのですが、今回の馬場昌久氏のように離北後の消息が分かったのはまれな例です。
 それも、馬場昌久氏のご遺族が大切に保存されてきた野付牛時代の写真類を、当市に寄付されたことがきっかけでした。その写真一枚一枚を検証する中で、筆者も多くのことを学ぶことができ、原資料の大切さを再認識いたしました。ご寄贈頂いた馬場ちゑ子様、色々な情報を教えて下さった森下美恵子様に深く感謝いたします。また、当方の照会に公務ご多忙のところ、快くご回答頂いた各市町担当の皆様にもお礼を申しあげます。ありがとうございました。 (完) 

《中庭だより》
☆秋の気配が深まり、朝夕寒くなりました。季節の変化に体が追いつかない感じですが、読者の皆様には風邪にご注意ください。また秋は「実りの秋」でもあり、10月6日の市史編さん委員会で新「北見市史編さん基本計画」が年内に策定できるめどが立ちました。これも委員各位が熱心な論議を積重ねてこられたおかげだ、と心から深く感謝しております。
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