ヌプンケシ155号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.155
 タイトルヌプンケシ
平成20年11月15日発行

◎旧北見市「字名の由来」について(2)

◇昭和25年・第7回北見市議会定例会議事録から
 では何故、昭和27年(1952)に字名・地番改正が施行されたのかについては、これまでの『北見市史』にも書いてありませんし、担当課にもそれに関係した文書はないということでした。
 重要な改正ですから、多分議会の議題になっていることだろうということで『北見市議会史』(昭和61年=1986年12月発行)を見てみましたら、推測どおり、昭和25年(1950)12月20日〜21日に開催された第7回北見市議会定例会に「建議 第七号 地名地番改正について」とありましたので、早速、市議会事務局にお願いしてその議事録を閲覧させてもらいました。

  髙橋元雄議員写真 当該議事録によると、定例会第一日目12月20日に髙橋元雄議員(右写真の人物)が議員提案し、説明を行なっていました。その提案説明を分かり易く整理すると、次のとおりです。
 当北見市は「町名、番地」と「地目、地番」の二つの表記に別れ、農村部では「多くの土地」の「番地が飛び飛び」になっていて、土地登記のため、調査するにしても「非常に複雑多岐にわたっておりまして、中々一朝一夕では自分の地番は何番かわからない状態になって」おり、土地売買の面で間接的な損害を蒙っている。
 また、市の発展に伴って、高台や西部地区にたくさんの住宅が増え、そこの住民達に「勝手な名称をつけられた」われわれの土地もある。そうした面も「われわれ現実にぶつかっている問題であり」、そういう面からも速やかに改正していきたい。以上が提案の主な理由である。
 「この地名、あるいは地番の改正では、最近各町村とも行なわれまして、旧野付牛管内の町村は全部」実施されていて、「本家本元の北見市が残っている」、「全道の都市から見ましても、...その殆んどが実施されているという状態になっております。」
 「実施面は二十六年度でございますが、その準備期間をここに相当な時期を持つというので、今回急に提案した次第でございます。」
この議員提案は「異議ないものと認め、原案の通り可決確定」されました。

◇相内村はじめ関係町村は戦前に字名改正
 この議員の発言から分かるとおり、旧野付牛管内で北見市が最後に字名改正した形になっていました。昭和31年(1956)に北見市と合併した相内村での字名改正は、昭和25年3月発行の『相内村史』によれば、昭和17年(1942)9月1日に「新たに村に字を設定し土地番号を全面的に改めた」とあり、「開村以来本村にありては公称の字名を用いず、村行政の便宜から部落名又は区名を用いて来つたが之れとて戸籍又は土地台帳に記載するものではなかつた。茲に至つて始めて之を設定公称することになった。」と、新字名「相内・東相内・美園・豊田・泉・住吉・本澤・柏木・富里」が列挙され、「旧部落との関係」も簡略に記されています。
 端野町の字名改正が最も早く、昭和13年(1938)4月1日施行で「端野・一区・二区・三区・川向・協和・緋牛内・忠志・北実・北登」が設定されました。なお、このうち「北実(きたみ)」は、北見市と紛らわしいためか、昭和29年(1954)に「豊実(とよみ)」と改称されています。
 留辺蘂町の字名改正施行は、昭和15年(1940)1月1日で新字名として「丸山・瑞穂・花園・元町・宮下町・豊金・東町・仲町・上町・栄町・旭・大富・金華・昭栄・温根湯・花丘・大和・松山・平里・川北・滝湯・厚和・富士見」が設定されました。詳しいことは『留辺蘂町開拓小史(第二集)』を参照してください。
 常呂町の字名地番改正は昭和16年11月10日施行で、大正2年二級村制時におかれた大字(旧村名)を廃し、新たに「常呂・東浜・土佐・岐阜・栄浦・共立・豊川・富丘・福山・日吉・吉野・登」の12の「字」が置かれました。

◇昭和26年(1951)12月29日付『北見新聞』から
 昭和26年度から改正作業をしたということなので、企画財政部が保管している予算書を閲覧したのですが、関係予算は見当たりませんでした。公文書での追跡は諦めて、仕方なく中央図書館に出かけ、昭和26・27年2年間分の新聞のマイクロフィルムを見てきました。
 昭和26年では、最終的に一件だけ関連記事を見つけました。それが12月29日付『北見新聞』の、当時北見郵便局貯金課長であった大野一郎という人物が投稿した「字名地番改称に寄す」という見出し記事で、その書き出しは次のとおりです。
 「北見市の字名・地番の改正に■ゆれ注意■委員会が、道よりそれぞれの係官を招いて近く開かれるということであるが、開基わずかに五十五年今歴史を作りつつある新興北見が先人発展の過程をたどり、道民精神が高揚される地名が生れることを四万市民と共に期待する一人である。しかしこれは只単に改正するということでなしに、いろいろな角度から検討を加えなければならないと思う。以下気のついたことを述べて見たい。」
 このあと[道内十四市の字名は一応参考になるであろう][隣接町村の字名=何れも近年改正のものである][北見市の現名称][旧字名][郵便局的な名称][歴史的地名][地形と地番][人口の分布]など8項目にわたって私見を述べています。その全文を掲載したいところですが、紙面の関係で割愛し、筆者が注目した次の項目を紹介します。

[北見市の現名称]町の中心をなす停車場通りは戦前は観兵通りから戦後は何時誰が名付けたか平和通りにかわっている、ここを境として東西條丁目と、旭ヵ丘、旭町、栄町、昭和町、新町、高台、常盤町、西町、番場町、緑ヵ丘、森永町、夕陽ヵ丘、山下通、市営住宅、川東区、上仁頃、上常呂高台、上常呂川向、上常呂、開盛、毛當別、下仁頃一、二、三区、北光社、若松、桜町
 これを見ると、字名改正時にそのまま生きた地名が結構たくさんありますね。
 それと、この文中にある現在の「中央通り」のことを戦後一時期「平和通り」と言っていたとは、筆者は知りませんでした。ただし、「観兵通り」が「中央通り」になったことは、以前、別の事を調査していた時に、昭和22年(1947)3月1日付『北見新聞』に「消える〈兵村〉の名/観兵通は中央通と改称」との次の見出し記事を見つけ、知りました。
 「廿七日の北見市会で従来停車場通観兵道路と呼んでいたところを『中央通』と改めることに決定した、なお『兵村』の名称を改める考へはないかとの桑原議員の質問に対し妻沼助役は『変へねばならぬと思って研究中である』と答えた 明治以来呼びなれた兵村の名も観兵式で有名になった観兵通も近く消えて行くわけである」
 戦後、占領軍の命令で軍国主義的なものが否定され、当市でも軍国色の濃い名称等を追放して、戦前一般に通用した地名「兵村」等の名称も表だって使用できなくなり、その影響が昭和27年の字名改正に反映されたことは、後で述べてみたいと思います。(続)
《中庭だより》
☆木枯らしに葉が全て散って、中庭のイチョウの木も冬姿です。い良いよ冬到来ということで、これからは暖かい部屋でワイワイ鍋を囲んで熱燗で一パイやるのが何よりです。季節の変わり目は風邪を引きやすくなりますので、読者の皆様も健康にご注意ください。
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