ヌプンケシ177号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.177
 タイトルヌプンケシ
平成21年10月15日発行

中澤巖氏写真◎発見・中澤巌記念碑
                          
 8月24日、本州にお住まいのご婦人から市史編さん主幹に次のような依頼のお電話がありました。
 「9月の連休(シルバー・ウィーク)に道内を夫と旅行することになりました。ついては、北見の方にも足をのばして、母から聞いていた伯父にあたる中澤巌医師の住んでいた所や、石碑もぜひ訪ねてみたいと思っていますので、その場所を示す資料があれば提供をお願いしたい。」
 (故)中澤巌(1884.11.26〜1955.2.15)氏は、平成14年(2002)3月発行の『北見医師会創立記念誌−100年の医療史−』に当市医療の功労者の一人として略歴が記録されており、病院の最終所在地が「1条東1丁目」にあったことは直に分かったのですが、ただ「石碑」については筆者も初耳で、平成3年 (1991)6月発行の『記念碑・石碑集』にも該当がありませんでした。
◇『北見の今昔』に...
 
そこで中澤氏に関する資料を検索してみたところ、昭和46年(1971)12月発行の『北見の今昔』に中澤氏の略歴紹介と「仁頃に建立した"中澤巌記念碑"」との説明付写真がありました。
『北見の今昔』中澤巖記念碑写真 この写真で仁頃に記念碑があることは間違いないのですが、その場所は全く見当もつきませんでした。そこで地域に詳しいベテラン職員に聞くのが一番ということで仁頃出張所に電話を入れ、事情を説明し、「中澤巌記念碑」に心当たりあるかどうか聞いてみました。しかし、当てにした職員も初めて聞く話だとのことで、これでこの調査もお仕舞いかと筆者は思ったのですが、彼は親切にも、勤務後に仁頃の山林を所有する長老を訪ねその記念碑のある場所を聞き出し、翌日、現地を調査、その記念碑と碑文の写真を当室にメールしてくれました。
 確認された記念碑のある場所は、仁頃町の奥にある北陽の、中澤家が所有する山林の中でした。佐呂間へ抜ける国道333号のルクシ峠入り口左手にあった釣堀跡付近に、記念碑のある山の上に通じる林道がありますが、道路の状態が悪く、四輪駆動車でないと目的地に行けないとのことでした。つまり、普段人が行かない個人所有の山の上にある記念碑ですから、一般市民がその存在を知らないのは当然でした。
◇「中澤巌記念碑」の碑文
 折角メールで送ってくれた碑文は文字が潰れて読めませんでしたので、市史編さん主幹が直接現地へ行き、蚊や虻に襲われながら、必死になって碑文をカメラに納めてきました。
 次に紹介するのが、その碑文です。ただし、原文を読みやすいように少し整理しました。

 中澤巌/埼玉県児玉郡東児玉村大字関 医師中澤照吉四男/明治十七年一月二十六日誕生 埼玉県立熊谷中学校卒 早稲田大学二年在学中医師の兄死亡し 代々の医家を継ぐため医科(現日本医大)に転学 卒業後東京で病院に勤務中同郷の広木六太郎(明治三十二年野付牛屯田兵戸主富三郎氏家族として入植)氏から開拓者の無医の窮状を聞き 医は仁術の使命を感じ大正元年三月同氏宅に旅装を解く 時に二十八才 その夜患者第一号が曹長川村恒馬氏重患のハシカで氏は常に中澤を命の恩人と云う 四月仮寓の旧中隊本部から一条西一角駅前通りに八十坪程の二階建を新築 中澤病院を開業(駅前の雑貨商新井宇太郎土地) 郷里岡部村より強瀬宇一郎の長女ハツ二十二才を妻に迎える 当時池田線が野付牛まで開通し野付牛網走間の鉄道工事のため土工夫が土方部屋という飯場に起居し設備が悪く毎日二 三人死亡 斯る未開拓裡に長男欽也が大正三年三月七日誕生四十余日で早逝 この年五月野付牛大火で二百四十戸が焼失その類焼にあう 一条東一に二百坪の土地を求め六十坪の建物を再建 その時三井木工場が被災者に復興材を格安に提供し四分板一坪八銭 普済寺からの見舞金五百円で建築費を支払い残金百円で東京から薬品を購入石油箱で七 八個で一年半使用し多くの人命を救う/その人情の深さ印象に残る/この年天候悪く収穫は芋位で九月中旬大霜害で薄荷 豆凶作 秋精算の回収なく正月用の餅も搗けず雇員に年末の手当を上げ兼ね生家からの送金百円で支払いを済せ苦難の大正三年であった 翌大正四年長女弥生誕生/大正八年五月私の父強瀬宇一郎が大工を伴い来道診療室病室を増築/この春悪性スペイン風邪猛威を振い死者続出す 反面木材 薄荷 手亡豆欧州大戦の波に乗り経済界好調薄荷ブーム到来 相次いで開業 医師の町として福音を齎す/明治四十五年軍医として赴任した嵩氏と昭和初期まで遠くは置戸 境野 訓子府 近くは端野 相内 山間僻地を馬で連日夜半十一 二時まで往診 地域住民に救世主の如く慕われる/また町村医 学校医 工場医 徴兵検査と嵩氏と分担して東奔西走 日当三円馬の借賃一円 二日三日もどらぬと熊の来襲なきかと心痛すること毎度/想い出の人に駅前市川旅館主鈴木幸吉タケ夫妻/氏は大正八年頃から毎年大洪水で鉄南亜麻会社(南小付近)一帯が濁流に呑まれその都度献身的炊出救援の数々お二人の人柄と共に印象深い 他面中澤は木材の街野付牛の山林が無計画な伐採で資源減を憂う 網走支庁が森林資源保存の緑化運動を始め 野付牛に森林愛護組合をつくり後森林組合と改称し初代会長に選任緑化運動に盡す 自己も昭和八年より仁頃の山に植林をし河西農園より椴松苗五千本 翌年クルミ イタヤ五千本を植樹し野鼠に荒されたが 昭和十七年までに十七町歩の植林を終え大東亜戦争で中止するも枕木として楢材を供出/二十年終戦まで医師と組合長を勤めた 昭和二十二年に心臓肥大症に罹り二十三年三月閉院 娘弥生の開院先川崎市生田で療養生活に入り夏は北見冬は川崎と恵まれた八年間を送り 昭和三十年二月十五日永眠七十才 中澤の遺志を継ぎ植林事業を継続 五十町歩余 その他併せて百八町歩 生存中の植林も三十四年生となり 大樹は繁茂し その中に念願の記念碑を建て故人の遺志を偲ぶ/昭和四十三年九月十五日/中澤ハツ建立
ハツさん写真
  この碑文は、奥さんのハツさん(右写真)が書いたものでした。ハツさんは開拓地で多数の人命を救った夫を尊敬し、その仕事を支え、中澤氏が他界後もその遺志を継いで植林を継続、昭和46年(1971)1月3日永眠しました。
 この碑文は夫の功績を殊更世間に誇示するものではなく、ハツさんからの一種の恋文で、ご夫妻が共に歩んだ人生の記録だったと云えるでしょう。
 以上、調査したことも含めて、依頼してきた方へ資料を送付しました。

《中庭だより》☆今回の「中澤巌記念碑」は市教委で編集した『記念碑・石碑集』に収録されておらず、仁頃出張所のMさんの協力なしには、所在も全く不明のままでした。まだまだ市史で分らないことがたくさんありますので、今後とも皆様方の一層のご支援をお願いいたします。
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