ヌプンケシ183号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.183
 タイトルヌプンケシ
平成22年 1月15日発行

◎書店・本屋は文化の灯火(2)                 

◇文化に飢えていた国民
 昭和20年(1945)8月15日の玉音放送で敗戦を知った国民は、一時呆然としたものの、戦後の混乱の中をどう生き抜くか、必死でその日その日の食糧を確保するために買出しに出かけたりもしました。国民は食物に飢えていただけでなく、戦中検閲と統制で抑圧されていた「文化」にも飢えていましたから、古本でも何でも兎に角「文字の書いてある物」は飛ぶように売れたといいます。しかし、東京の出版業界は空襲で壊滅的な打撃を受け、しかも印刷用紙なども入手困難で出版出来ない状態でしたから、その需要に即応出来ず、北海道など空襲の被害が少なかった地方に業務を移して、事業を再開しました。
 昭和22年(1947)6月発行の『北見商工案内』を見ると、その「業者名録」に「書籍商」はなく「文房具商」が10軒記録されています。多分、昭和20〜22年頃まで、「書籍」は商品流通として成立しなかったからでしょう。ただ、その10軒中で「卸小売/フミヤ書店/田中研三/二條西三丁目」が目を引きます。昭和34年頃の福村書店写真
◇フミヤ書店
 
戦後、満州から引揚げて旦那さんと北3条西2丁目に「福村書店」を創業した下斗米ミチさんの自伝『母さんの風呂敷包み』(平成元年=1989年6月発行)でも、自分の店から「半町(一町は約一〇九メートル)ほどしか離れていないところに、フミヤさんという戦前からの文房具・書籍の老舗の角店がありました」と書かれています。現在は海産物・珍味などの土産屋になっている場所にあった「フミヤ書店」が終戦後に一番力のあった大店であったことは間違いありません。筆者自身も50年以上前の子どもの頃「フミヤさん」が同じ町内でしたから、よく雑誌や本を立読みさせてもらいました。上の写真は昭和32年頃の銀座通りで、フミヤの看板が見えます。
 その「フミヤ書店」が何時から店を開いたかということになると、はっきりした記録がありません。古い地図を見るとその場所には「レンカ堂」という店があり、昭和11年(1936)8月発行の『野付牛阿寒連絡観光地図』では、その左隣(現・タマル時計店の所)に「冨美屋」の文字が見えます。多分、この「冨美屋」が「フミヤ」の前身で、昭和11年以降レンカ堂が廃業した後、角地に移ったものと推測しています。
◇福村書店創業の頃
  『母さんの風呂敷包み』によると、昭和22年頃引揚者のために「市役所では、バラックの店舗を20軒ほど建てていました。希望者が多く、抽選だったと思いますが、上の義妹の名で入居することができたのです。」バラックの店舗は、昔「梅の家」があった空き地に銀座通りから三条通にかけL字型に並べて建てられました。「バラックの店は一〇坪です。フミヤ書店写真そのうち店として二坪を取り、炊事場、押入れ、裏口などを取ると、いくらも残りません。」そこに姑と義理の妹2人、ミチさん夫婦と幼い長男が住んだのですから、大変だったようです。ご主人は「文房具の卸小売業植松商店に商売のため入社していました。その関係で、店にパラパラとわずかな文房具を並べることになり、義妹の名前で福村商店の看板をあげたのです。それがのちの福村書店の名前まで続いているのです。/入居者は商売をすることが条件でしたから、その言い訳程度の商品を置いただけでした。」
 上の写真は、昭和34年(1959)頃の福村書店です。バラック店舗の様子が、少し分かります。
◇本の行商

 それでミチさんは子連れで鉄道弘済会に勤めていました。「この事務所に、大きなリュックに本をたくさん詰めて売りに来る人がいました。加藤さんという名で、トレードマークのように、いつもダブダブの飛行服を着ている人でした。/その加藤さんが私に『今、本が一番売れるよ。卸してやるから本屋をやりなさい』と勧めてくれたのです。このアドバイスがその後の人生を大きく変えるきっかけになりました。/加藤さんから本を卸してもらって、たった二坪の店に本と文具を並べました。」当時は、本を行商して充分生活が出来たということです。
◇ニレ書房
その「加藤さん自身も寄り合いデパートの中にニレ書房という大きな書店をオープンさせました。/戦争が終って間もない昭和二二年のことで、誰もが活字に飢えていましたから、加藤さんの店は日の出の勢いで伸びて行きました。/レジスターなどない時代だったので、本の代金をいくつかのミカン箱にただ放りこんでおき、閉店してから勘定するのに夜明けまでかかったという話も聞きました。すぐ市内に二軒の支店を出し、奥さんの兄弟も勤めをやめて書店を手伝っていました。」
 この寄り合いデパートとは、西1丁目の1条と2条を通して建っていた「会陽館」のことです。「ニレ書房」という本屋は、筆者はこの本で初めて知りました。詳細は今のところ不明です。
◇本を仕入れに神田へ
 「卸してあげると言っても、自分の店があれば、売れ行きの良い本は回ってきません。うちの店は、二番手の本を、九掛で、しかも現金で仕入れるという不利なことになりました。/ニレ書房の繁盛ぶりを見て、良い本さえあれば絶対に売れるのだと、主人と私は確信を持つことができました。書店の仕事に本腰を入れることになり、主人は大きなリュックを背負って東京の神田へ仕入れに出かけました。」上京するのに、汽車を乗継いで2日はかかったそうです。
 「私は当時行ったことはありませんが、神田には本の問屋街があったそうです。本を仕入れて、荷作りして鉄道便で北見へ送り、急ぐ本は自分が背負って、超満員の汽車で帰ってきました。鉄道便のほうは、四、五日かかって着くのです。/こんなふうに主人が東京との間を二、三回往復しているうちに、ようやく問屋からも本を送ってもらえるようになりました。」 (続く)

《中庭だより》☆お正月はいかがでしたか? 筆者はお酒を飲んでの寝正月でした。史稿NO.38『料理人長尾市治郎と北見料理学校』は同僚の協力で、期日どおりに発行でき、新年は幸先の良い年となりました。筆者が執筆中の史稿も早く仕上げなくては、と少々焦っています。 (汗)
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