ヌプンケシ186号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.186
 タイトルヌプンケシ
平成22年3月1日発行

◎上杉病院のことから(1)              
   1月20日の午後、女性の方が市史編さんニュースのバック・ナンバーを閲覧したいと当室に来られました。(当ニュースのバック・ナンバーは、当市のホームページの「歴史・風土」を開いて頂くと見ることができます。)それでお話をするうちに、この方が戦前、町役場前の現在のフコク生命北見支社のところにあった「上杉病院」の上杉院長とご親戚で、薬剤師をされていた「邨瀬(むらせ)汎」氏のお孫さん=久永万里子さんで、21日に北網圏北見文化センターに「上杉病院」関係の写真等、資料情報を提供するためにわざわざ名古屋から当市へ来られ、事前に当市のことが知りたくて、当室へ立ち寄られたことがわかりました。
 その際、持参した写真の中に「I『日の出写真館』の台紙があるのだけれど、同館はどこにあったのか?」、II「『嶋田久作』と裏書のある、大正12年(1923)の写真があるが、同氏について何か情報はないか?」、以上2点のご質問がありました。   
 Iについては、筆者も長年探索している写真館で、昭和57年(1982)8月邨瀬清氏写真発行の『全北見写真師会創立20周年記念誌』に、「日の出写真館 野付牛町 明治43年 」創業が書かれているだけで、今も所在地等について 確認できる資料は残念ながら出てきません。
 IIは どこかで聞いた名前だったのですが、考えてみたら映画『帝都物語』でデビューした怪優 『嶋田久作』の芸名と同じでした。結局、当室にある資料には 該当する人物は出てきませんでした。(右がその写真で、肩車されているのは 汎氏の長男=久永さんの伯父様、邨瀬清氏・当時3歳です。)
 以上、翌日回答したのですが、これらについて何かご存知の市民の方がいましたら、当方にご連絡をお願いいたします。
 というわけで、今号から上杉病院の関係についてレポートしてみることにします。
◇野付牛病院と上杉病院
  上杉病院と院長上杉栄二氏について知る方は少ないと思いますので、昭和45年(1970)3月に発行された『北見医師会 会報』NO.4に掲載された、当時の同医師会の生き字引であった藤田英夫氏が書かれた『むかしばなし/北見の医者』(四)から関係部分を引用します。

    嵩病院に次ぐこの町二番目の医療機関は「野付牛病院」と申しました。
 その開設は嵩鶴彦の独立開業と前後する明治四十四年のことで、その後約十年間というもの、北見地方の二大病院として斯界に君臨し、またライバルとして互いに鎬を削ることになるわけです。(中 略)
 一般的に北見信用金庫(もとの安藤内科病院)が野付牛病院の在ったところと思われて居りますが、ここはあとで再建された場所です。最初は二条東四丁目——判り易くいえばビッツアーク・ホテルの近辺にあったもので、野付牛病院写真広い敷地としょうしゃな病棟は当時の人の目を瞠らせるに充分だったのです。(左は同病院の写真で、『古写真で語る北見の歴史』明治・大正編から転載しました。—引用者)
  開設者は千葉県出身の斎藤宗誠でこの人自身も内務省検定の医者だったのです。当時新開地としてようやく注目されて来た野付牛に、彼は総合病院を建設しようと企てました。令名高き嵩鶴彦に対抗するためには、病院の設備が立派なばかりではなく、良い医者がいなければならない。そこで院長として外科医の上杉栄治を迎えたのです。この上杉医師が、当時札幌以北唯ひとりの東京帝大出身医学士だったことは特筆すべき事柄でしょう。
 まだ鉄道開設以前でしたから、上杉院長は建設列車に便乗して北見入りしたのですが、途中まで一等車で来たことと、颯爽とフロックコートで赴任したこととは、病院オープンと共に長い間巷の話題となったのです。(中 略)上杉栄二氏写真
 上杉栄治は野付牛病院院長として、また管内唯一の外科専門医として非常な業績をあげました。患者の信望は厚く、病院の成功も実に彼の人格とメスの冴えに拠るものと申して過言ではありません。おそらくこのころの数年が、彼の永い人生の中で、最も充実した黄金時代だったのではなかろうか。
 しかし——病院は大正五年火災のため全焼、一条東一丁目(いまの新本商店のところ)に再建したものの、開設者斎藤宗誠はその後他の事業に専念して経営を清水公に譲り、間もなく内地に引払ってしまいました。また町立病院移管の運動が起こったり(これは何故か実現しなかった。)その他の問題があり、大正九年、上杉はついに病院をやめて独立開業することになりました。
 そのころ野付牛病院は二条東一丁目に(いまの北見信用金庫)に大きく新築されて居りましたが、彼はその地続きで開業、その後間もなく高台に移ったのです。
  しかし残念なことに開業は意の如くに参りませんでした。どちらかといえば学究的でいかめしい印象が、開業医には向かなかったのかと思われる。昭和に入ってからは外科の同業者も殖えたので、彼はここを横山規矩治(現紋別医師会長)に譲って他へ転出、津別病院長その他をしたりなどの末、終戦後間もなく古巣の北見へ戻ってまいりました。晩年は中央校前の学園通りにささやかな診療所を開設、世間から離れてヒッソリと暮らして居りました。
 ——昭和四十一年、北見医師会を退会、医師不足に悩んでいた網走市の北浜診療所に市医として赴任、翌年、流氷まだ去らぬころ同地で亡くなられたときは、八十才を過ぎる高令でありました。(なお、右上の写真は、大正11=1922年発行の『北見之人』から転載しました。)

 この記述は思い出話なので記憶違いがあります。まず上杉医師の名前ですが、久永さんから頂いた情報では「栄二」が正確で、各種資料を見ると独立開業したのも大正8年だったようです。この調査で「新発見」もありました。それは次回のお楽しみといたします。(続く)
《中庭だより》☆21年度も残り少し。筆者も史稿『杉町八重充とその時代』の纏めに焦っています。また、環境課生活環境担当係長がブラジルの児玉兼次氏のご遺族と連絡を取ってくれて、近々関係写真を送ってくれることになりました。どんな写真が出てくるか、大変楽しみです。
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