ヌプンケシ187号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.187
 タイトルヌプンケシ
平成22年3月15日発行

◎上杉病院のことから(2)
◇上杉医師の略歴
 念のため、大正11年(1922)10月発行『北見之人』、昭和31年(1956)10月発行『北見市名士録』、平成14年(2002)3月発行『北見医師会創立記念誌—100年の医療史—』を総合して、上杉栄二氏の略歴を確認しておきたいと思います。
 出生地は名古屋市で、明治18年(1885)3月3日生れ。明治43年(1911)12月東京帝国大学医科大学医学科卒。明治44年1月より同45年5月まで文部省医術開発試験附属病院に助手として勤務。同45年(1912)6月から野付牛病院勤務。大正8年(1919)6月、北2条東1丁目に上杉病院を開業。大正11年(1922)、野付牛町役場前の北5条西1丁目に病院を新築。昭和5年(1930)〜9年(1934)常紋郡医師会会長。昭和9年、病院を横山規矩治に譲り満州に転出。昭和10年(1935)帰国、一時明石病院(大通東6丁目)跡に開業。昭和14年(1939)11月、釧路市太平洋炭礦春採病院勤務。昭和19年(1944)8月、津別町松下木材会社津別病院勤務。昭和24年(1949)6月、北見市北10条東1丁目に開業。昭和25年(1950)9月、北見逓信診療所嘱託。昭和41年(1966)、網走北浜診療所所長として転出。昭和42年(1967)1月9日死去、享年81歳。大正5年9月26日付『釧路新聞』広告
◇上杉病院の創立年と清水医師の赴任
  ところで、この略歴調査のために大正12年(1923)3月発行『野付牛町勢一班』の「私立病院医院」、大正15年(1926)12月発行『野付牛町誌』の「医院、病院」の部分を参照したところ、上杉病院の創立年月日は大正8年ではなく「大正5年(1916)5月27日」となっていました。これはどう理解すれば良いのでしょうか。
 藤田英夫氏の『むかしばなし/北見の医者』によれば同年に野付牛病院が火事になったとありますから、それを機会に独立を考えたのかと思い、病院が火災になった日が特定できないか、以前収集した『釧路新聞』野付牛関係コピーで大正5年1年間分を見ましたが、右の広告が同年9月26日付にあった程度で 全くそのような火事の記述は見えませんでした。
  前記の『北見之人』に上杉医師から引継いで、野付牛病院の2代目院長になった清水公氏の略歴が次のように紹介されています。
清水医師の写真  「明治二十一年三月十日東京府下豊島郡西巣鴨町字池袋に生れ、清水純の養嗣子となる 明治四十年東京開成中学校卒業 同四十三年第二高等学校卒業 大正三年東京帝国大学医科大学卒業同五年三月野付牛に来り野付牛病院長として施設宜敷を得 同町上下に信望あり 日本赤十字社特別社員なり」(左は、『北見の人』に掲載の清水医師の写真です。)
  考えられるのは、清水医師が大正5年3月に野付牛病院に赴任したのを機会に、上杉医師は独立を実行しようと開業届を出したものの、病院側から慰留されたのかもしれません。それとも全く単純に「大正8年」が「大正5年」に誤記されたのかもしれません。いずれにしても確定できる資料は今のところなく、納得のいく解明はできませんでした。
◇野付牛病院の出火は、『大正2年(1913)10月27日』
 さて、『釧路新聞』複写資料からの調査では野付牛病院の出火した年月日が明らかになりませんでしたので、明治39年(1906)から昭和12年(1937)に57歳で亡くなるまで日記を書き続けていた茶木与三氏の日記から、『北見市史』編集委員長であった鈴木三郎先生が市史関係部分を抜粋した資料がありましたので、駄目もとで参照して見ました。
  その結果、大正5年ではなくて、大正2年(1913)の日記の抜粋で10月27日の項に「午前十一時三十分頃野付牛二条通三丁目高地 野付牛病院出火ニテ全焼 午後一時消 終了タリ」との記述を見つけました。鈴木先生の綴り間違いも考えられましたので、茶木氏のご子孫に妹さんが嫁いでいる現編さん委員の扇谷チエ子さんに連絡を取り、この記述部分が何年の日記にあるか現物で確認して頂いたところ、「大正2年に間違いない。」とのことでありました。筆者も藤田氏の「むかしばなし」の「大正5年」より、日記の連続性という性格上、この「大正2年10月27日」が正確な野付牛病院出火の年月日と判断したところです。
 この判断を補強するため『釧路新聞』の大正2年分で確認しようと思い、釧路の地域史料室に問合せしたのですが、肝心の「6月〜12月分は失われている」とのことで、大変残念でした。
 この藤田氏起源の「大正5年」説は、平成2年(1990)発行の『北見の消防』にも採用されていますので、今後の参考に茶木氏の日記抜粋複写を消防本部総務課へ送付しておきました。
 このように「昔話」や「思い出話」には重要なヒントや情報がたくさん含まれているのですが、「事実」として鵜呑みにはできません。「事実」確認は、聞き手や読み手側の責任です。
◇野付牛病院の再建は?
 大正3年11月5日付の『釧路新聞』「野付牛病院落成」出火年月日の見直しで、当然野付牛病院の再建年月日も再検討せざるをえないわけで大正3年1年間分の『釧路新聞』の記事を丹念に見た結果、右に提示した大正3年11月5日付の「野付牛病院落成」という見出しの記事を発見しました。本文は次のとおりです。
 「野付牛市街地に於ける野付牛病院は 昨年十月火災に遭って以来一時嵩医院跡に移り 本年一月再び市街地大通りに仮診療所を設けて 今日迄患者の診療を扱い来りしが 一条通り東一丁目十五番地 共盛株式会社裏に経費約三千円を投じて新築工事中なりし病院愈々落成したるを以て 十月二十九日此所に移転したり 工事は去る九月十日より着手し 十月二十二日道庁の認可を得たるものにて 総坪数百二十坪、二等病室二、三等病室四の外 診療所、手術室、薬局、看護婦室等あり、患者収容定員○三人にして院長上杉医学士 主として外科、花柳病、耳鼻に 斎藤院主内科および婦人科を担任 従前の如く一般患者診察の求めに応ずる外 入院希望者を収容し得と云う 因みに院主齋藤宗誠氏は明治四十四年初めて野付牛市街地に開業 四十五年二月病院設備を整へたるものにて 目下野付牛に於ける済世会救護所たり。」(文中の○は不明文字—引用者)
 この記事で、野付牛病院の火事が「大正2年10月」に起きたことが確定し、その後に病院は嵩医院跡(現在のとん田公園内か?)、大正3年1月からは(釧路新聞年賀広告にある)「大通り東2丁目」の仮診療所と場所を移し、そして10月29日「北1条東1丁目15番地」に新築された病院に移転、不明文字で収容定員は不詳ですが、治療を開始したことがわかりました。(続く)
《中庭だより》☆去る1月27日、歌手の浅川マキ(67歳)が急性心不全で急死しました。北見では市役所の青年達が中心のグループ「創世記」主催で、昭和47年(1972)10月19日市民会館で彼女のコンサートが開催されました。読者の中には聴きに行った方もいるのではないでしょうか。
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