ヌプンケシ188号

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市史編さんニュース NO.188
タイトルヌプンケシ 
平成22年4月1日発行

◎上杉病院のことから(3)大正8年1月11日付『釧路新聞』の野付牛病院の年賀広告
◇上杉病院の開院
 右の広告は大正8年(1919)1月11日付『釧路新聞』にある野付牛病院の年賀広告です。ご覧のとおり、上杉医師の名前は見えません。同医師は 大正7年末には、野付牛病院を離れて独立の準備をしていたものと考えられます。『北見市名士録』によれば、大正8年6月に上杉医師は「北2条東1丁目」に上杉病院を開院しました。藤田英夫氏の『むかしばなし』では野付牛病院が同地に新築移転してから、上杉病院が「その地続きで開業」したように記述されていますが、それは逆のようです。下の写真は今回提供された写真の一枚で「大正10(1921)9月」の裏書からして、「北2条東1丁目」にあった「上杉病院」です。
 上杉病院写真戸籍等によれば、上杉栄二氏の三男=隆吉氏が大正8年8月28日、邨瀬汎氏の長女=愛さんが大正11(1922)4月27日に生まれ、出生地はお二人とも「野付牛町北弐条通東壱丁目八番地」となっていますから、昔の北海道拓殖銀行=現・北洋銀行北見中央支店横の月決駐車場の辺りが、上杉病院のあった場所になります。

 野付牛病院が、その上杉病院の斜め向かい側、現・北見信用金庫跡の「北2条東1丁目」角にいつの時点で新築移転したかについては、手持ちの釧路新聞コピーを全部ひっくり返してみましたが、残念ながら該当する情報は何も出てきませんでした。ただ、『野付牛町勢一班』の(大正11年9月現在)の野付牛病院の所在地は「1条東1丁目15番地」で、大正15(1926)12月発行の『野付牛町誌』では「北2条東1丁目16番地」(この16番地は、現状から見て「15番地」の誤記と思われます。)になっていますから、この間に移転したのでしょう。野付牛病院の移転時期の解明については、今後の課題といたします。
◇邨瀬汎氏のこと
邨瀬汎氏写真 今号の執筆に際して、久永さんが作成して下さった年表に基づいて邨瀬汎氏の略歴を紹介させて頂きます。(右は同氏の写真です。なかなかの二枚目ですね。)

 邨瀬汎氏は明治25(1892)9月14日、小学校教師であった邨瀬愛尊氏の三男として愛知県八名郡(現・新城〈シンシロ〉市)で生れ母ゆくさんは出産した夜に死去され、同氏は父親の教え子であったという松澤夫妻に預けられて成長しました。
 なお、上杉栄二氏は、愛尊氏の兄である上杉重斎氏の次男で、汎氏とは従兄弟の関係でした。
 汎氏は明治43(1910)4月に「私立愛知薬学校」(現在の名古屋市立大学薬学部の前身校の一つ)に入学、大正元年(1912)10月に同校を卒業しました。しかし、学校を卒業した時点で汎氏は20歳でしたから、すぐに徴兵検査の対象となり、その結果、2年間は現役兵として兵役についた可能性があり、それで薬剤師試験の勉強と受験する機会を失ない、試験に合格し、資格を取得するのが、結婚後の大正10(1921)になったものと筆者は推察しています。
 大正5年(1916)頃に渡道、上杉栄二医師の紹介で野付牛病院に勤務し、実地で薬剤師の勉強をやり直したのでしょう。その野付牛町で、ちょうど産婆を開業した江口スエさんと知合います。下の写真はスエさんの着物姿で、野付牛町にあった「日の出写真館」で撮影されたもので、裏書には大正6年6月とあります。現在、愛知県新城市富岡でお元気にお暮らしの愛さん(88歳)のお話では、この着物は汎氏がスエさんに贈ったものだそうで、久永さんの推測ではこの写真は「汎の家族にスエを紹介するためにとった可能性あり」とのことです。 
 スエさん写真大正7年6月1日にお二人は婚姻届を出します。大正8年6月の上杉病院開業に際しては、ご夫婦でお手伝いをしたものと思われます。
 大正9年(1920)、第一子出産と薬剤師試験受験のために愛知県にご夫婦で帰り、汎氏の11歳年上の姉、りうさんが嫁いだ柿田医院に滞在、長男の邨瀬清氏が同年6月24日に生れました。
 汎氏は大正10年に薬剤師試験に合格、6月頃に野付牛に戻り、上杉病院の薬剤師として勤務します。

 父親が高齢となり、近くに住んで欲しいとの願いで、大正13(1924)9月9日、野付牛を離れ、愛知県に戻り、柿田医院にしばらく世話になり、大正14年2月2日愛知県豊橋市で「ムラセ薬局」を創業されました。久永さんのお父様、次男の恒雄氏は大正14年7月31日に同地で生れ、昭和3年(1928)2月22日には三男の龍吉氏が生まれました。
 昭和6年(1931)、豊橋の店を閉め、八名郡富岡(現・新城市)に移転、薬局を再開。昭和58(1983)1212日、長女愛夫婦が同居する自宅で 91歳でお亡くなりになりました。
 お祖母様のスエさんは、明治27(1894)5月、佐賀県から石狩國の南江部乙兵村(現・滝川市)に入植した屯田兵、江口弥和太郎氏の妹で、父親江口看太郎氏・母親ハルさんの三女として明治28(1895)6月8日に生れました。大正3年(1914)に産婆資格試験に合格、鉄道員となった長兄・弥和太郎氏について野付牛に来て、 大正5年(1916)5月18日に鉄道官舎内で産婆開業、前述のとおり大正7年に邨瀬汎氏と結婚、準看護婦としても働いたようです。3男1女をもうけましたが、昭和9年(1934)3月30日に38歳の若さでお亡くなりになりました。当時としては時代の先端を行く職業婦人で、汎氏に「貴方も一児の父親になったのだから、頑張って試験に合格しなくちゃ。」とハッパをかけるしっかりした妻だっただけなく、紙面の関係で紹介できないのが残念ですが、提供して頂いた資料の一つ、邨瀬清氏が旧制中学2年の時に書いた作文『私の生ひ立ち』を読むと、愛情豊かな母親であったことも分かります。

 さて、次号はご提供のあった写真を中心にご紹介したいと思います。お楽しみに。(続く)

《中庭だより》☆去る3月17日は児童文学者で、北見北斗高校で英語教師をされていた安藤美紀夫(本名・一郎)先生の20回目の命日でした。先生は『白いリス』『でんでん虫の競馬』等の名作で各種児童文学賞を受賞されています。図書館で、その著作を読んでみてはいかがですか。
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