ヌプンケシ195号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.195
 タイトルヌプンケシ
平成22年7月15日発行

◎きたみ写真ことはじめ(5)
◇久永万里子さんのご回答
 前号に書いたとおり、筆者は薬剤師・邨瀬(むらせ)汎氏が野付牛におけるアマチュア・カメラマン先駆者の一人と考え、お孫さんの久永万里子さんから提供して頂いた当市関係分の写真ファイルの裏書から見て、汎氏が写真を撮り始めたのを「大正10年(1921)7月」と考え、6月11日付の文書で、その旨、久永さんに照会してみました。これに対して早速6月15日にはFAXで、続いて6月19日付のお手紙でご回答を頂きました。その要約を次に紹介します。
 「資料も少なくはっきりは分からないのですが、報知新聞入賞写真も裏書は『吉川にて』(柿田家の所在地) と書かれていますので 第一子出産のため帰省して柿田家で世話になっている間に撮った可能性もあるのではと考えています。野付牛に比べれば機材等が入手しやすかったのではないでしょうか。隣の新城町(現新城市)には大正年間(遅くとも大正八年には)すでに写真館がありました。/写真の裏に甥の『好人撮影』と記したものも多く、自分が写したものと区別していた(区別するために裏書した?)とも考えられます。おそらく二人の間で写真のやり取りがあったのではないでしょうか。」
 以上の根拠として、久永さんは次の写真群をあげています。

  大正9年(1920)6月24日生れの汎氏の長男・清氏「生后四ケ月」と裏書のある写真。
  同じく清氏の生後6か月の裏書のある写真。
  大正9年12月2日に 柿田好人氏(次姉 柿田りうの長男)が写した汎氏の甲冑姿の写真。
  清の着ている物から判断して、2と同じ日、大正9年12月9日に撮られたと思われる清・スエ・愛尊(汎の父親)の三人のスナップ写真。
  大正10年6月11日と裏書のある清とスエの写真、および同じ日に好人写すと書かれた汎氏と知人達との写真(2枚とも同じ台紙とカバー)

 「祖父が野付牛のアマチュア写真家の最初であったかはわかりませんが、少なくとも初期のアマチュアカメラマン(写真愛好家)の一人であったことは間違いないと思います。強いて言えば、名前が分かる最も古いアマチュア写真家の一人でしょう。現時点でいえることは『遅くとも汎は大正九年秋には写真を撮っていたと思われる。』ということだけです。」
◇邨瀬汎氏も、野付牛初期アマチュア・カメラマンの一人
 以前『ヌプンケシ』188号に記したとおり、汎氏は大正9年に妻スエさんの出産と薬剤師試験受験のため、郷里の姉が嫁いだ柿田医院に滞在、大正10年に薬剤師試験に合格、同年6月頃に野付牛に戻り、上杉病院に薬剤師として勤務しました。
 最初、筆者は邨瀬氏が野付牛に戻ってから、松本倭左男氏の勧誘でカメラを趣味にしたと思っていたのですが、事実は大正9年すでに邨瀬氏は郷里で写真を撮っていたのです。これには甥の柿田好人氏の影響や、我が子の成長を写真に遺そうという汎氏の思いがあったことでしょう。
 いずれにしても、久永さんのご回答のとおり、邨瀬氏が野付牛初期のアマチュア・カメラマン(写真愛好家)の一人であったことに間違いないと思います。
 松本氏は大正10年に小樽から野付牛に来て弘仁堂薬局を引継ぎ、薬の営業で上杉病院に出かけた時に、薬剤師・邨瀬氏を知り、同じ趣味を持つということで親しくなったのではないか、等と想像しています。邨瀬氏は、その松本氏から写真材料を入手したのではないでしょうか。
 事実、紙面の都合で掲載を割愛しますが、2003年12月発行の写真集『北見・網走・紋別の100年』95ページに昭和18年(1943)の弘仁堂薬局が写った写真があり、そこには「クスリ」と共に「カメラ」の看板が見えます。とうとう趣味が高じて、商売にしてしまったようです。
◇料理人長尾市治郎氏も写真が趣味
 現代史専門委員であった福澤明氏が史稿『料理人長尾市治郎と北見料理学校』で紹介された、レシピ集『料理のコツ』の編著者で、戦後道内屈指の料理人、長尾氏も写真が趣味でした。
 昭和58年(1983)10月30日付『北見新聞』に「いにしえのポートレート」「鮮明50年前の作/キャビネサイズひょっこり見つかる」との見出しで、11枚の写真が同氏の自宅で発見されたことが報じられています。同記事には「五十年前の街並みの風情を伝える野付牛(当時)駅前のマルタン・浜岡商店」「オリンピックの陸上競技で大活躍した南部忠平氏を囲んだ北見の名士たち」「五十年前の野付牛公園でのスナップ」の3枚の写真が紹介され、「明治39年生まれの長尾さんが調理の道に入ったのは大正9年で、現在は金市館北見支店からマルヨ食堂などが軒を接している一帯に建っていたマルタン・浜岡。同店では自社建物に牛肉店の店舗を構える一方、スキヤキや鍋物を供する食堂部も設置していたが、長尾さんはその食堂部に調理見習いとして入社。カメラはその当時からの趣味」とあります。
 また発見された写真は「長尾さんの記憶によれば撮影は昭和初期で、器材はコダックの小型カメラではなく、三十年輩以上の人には懐かしい、技師が暗幕をかぶって撮影する組み立てカメラ。銀板を密着焼きする乾板写真で、多少の色あせはあるものの原板はピシリとピントの決まったシャープな写り。/戦前は旭川の第七師団が演習を行った際に記録写真の撮影の依頼を受けたり、戦後一時期は全道紙北見支社のカメラマンの嘱託を受けたりした長尾さんの“プロはだし”の腕前がしのばれる出来となっている。」と書かれています。
カフェーホームランで記念写真 左の写真は同紙に掲載された、昭和7年(1932)10月25日野付牛に来た南部忠平氏と撮ったホームランでの記念写真で、写真説明には「南部さん(前列左から三人目)を囲んで大内病院の先代、大内出さん(同左から二人目)らのほか、当時のホームランオーナーで野球チーム『ナインスター』を率いていた関量一さんの顔も前列右端に。当時のキャバレーの雰囲気を伝える貴重な一枚になっている。」とあります。
 福澤氏が前記の史稿で「薬剤師の松本が・・・大通り東5の『弘仁堂』薬局を引き継いだのは大正10年。のち、中央通りの西1に移転している。『マルタン浜岡』の隣接地である。」と指摘されているとおり、長尾氏が若くしてカメラを趣味にしたのも、松本氏らの影響があったかも知れません。
 以上から、大正10年前後に野付牛に邨瀬氏・松本氏・長尾氏などアマチュア・カメラマンが層として出現したと見て間違いなく、ということは大正時代当地においても富が蓄積し、カメラを趣味にするだけの経済的・時間的な余裕が出来た証拠ともいえるでしょう。(続く)

《中庭だより》☆早いもので、来る10月1日で当ニュースも200号になります。皆様のおかげで、何とか月2回の発行を続けることが出来ました。ありがとうございました。つきましては、200号記念に読者の皆様からの感想などを掲載したいと思っておりますので、どうぞよろしく。

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館