ヌプンケシ203号

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市史編さんニュース NO.203
 タイトルヌプンケシ
平成22年11月15日発行

◎野田儀三郎か?野田義三郎か?(3)
◇北海道立文書館からの情報
 前号で書いたとおり、道立文書館が所蔵する国有未開地の売払台帳に、野田農場の情報が記載されていることが分かりましたので、同館に電話を入れ、職員の方に現在野田義三郎氏について調査していることを説明したところ、親切にも電話で記載内容を教えてくださいました。
 台帳一連番号、最初の「87」の主要な内容は次のとおりです。

 (被売払人)  野田東三郎 野田義三郎
 (売払地籍)  北見国常呂郡野付牛村大字野付牛村字野付牛 5566番地以下32筆
           原 野 301町5反1畝7歩  存置地 60町歩
 (目的地目)  畑
 (売払出願)  大正3年(1914)9月22日   
 (許    可)  大正3年11月26日
 (売払価格)  1,356円80銭    立木代金 569円67銭
 (成功期限)  大正4〜13年までの10年間
 (起業方法)  自作開墾
 (事   故)  大正6年(1917)8月14日分割届出   大正7年2月23日分割承認
            野田義三郎 9筆        野田東三郎 23筆

 なお、この台帳上の野田義三郎の戸籍は「埼玉県南埼玉郡大沢町三千七百五十五番地」で、現住所は農林学校のある「三重県一志郡久居村大字東鷹跡町二百十四番地」でした。
◇兄=野田東三郎氏
 この情報で最初は滋賀県の兄=野田東三郎氏と共同出資で、土地の払下げを受けていたこと野田東三郎氏写真が分かりました。やはり理想に燃えて農場開設を考えていたのか、当初は小作人を入れずに、自作で開墾しようとしていたようです。
 野田氏の出身地、滋賀県日野町教育委員会町史編さん室の方から頂いた資料等によれば、野田家は享保7年(1722)生れの野田金平を創業第一世とする近江商人で、昭和5年(1930)時点で群馬県、兵庫県、東京などに7店を有する大きな造り酒屋でした。
 その野田一族に属する初代野田東三郎氏は「山中太兵衛の二男 五世金平の長女多鶴の養子にして明治八年分家す、明治十六年勢洲神戸に支店を開く、明治十八年板鼻出店にて病歿年四十、法名秀英」だったそうで、ここに出てくるのは「二世 東三郎」で「初代東三郎の長男、昭和五年一月十七日歿、年六十四、法名栽松」です。その生年月日は、慶応3年12月2日(新暦では1867年12月27日)で、義三郎氏が明治10年(1877)8月20日生れですから、9歳年上です。(前ページの写真は、日野町から提供された野田東三郎氏のものです。)
 兄=野田東三郎氏は、明治22年(1889)に発足した旧・日野町の町長に、第12代・大正3年(1914)2月〜大正7年(1918)2月、第17代・大正13年(1924)11月〜昭和3年(1928)11月と2回就任した町の有力者でしたから、義三郎氏は共同経営に誘ったのでしょう。

◇義三郎氏の土地

 しかし、義三郎氏の理想主義的な経営方針と東三郎氏の考えが噛合わなかったのか、先の台帳情報にあるとおり、大正6年(1917)に土地を兄弟で分割しました。その時、分筆された義三郎氏の台帳一連番号「87 イ」に記載された主な内容は、次のとおりです。

 (本    籍)  埼玉県南埼玉郡大沢町三千七百五十五番地
 (現 住 所)   北海道常呂郡野付牛町三條通東四丁目六五番地
 (地    籍)  301町5反1畝7歩 内5566番地以下9筆
            原 野 175町7反3畝26歩  存置地 35町1反3畝26歩
 (目的地目)   畑
 (成功期限)   大正4・5年 2年間
 (成功証明)   大正7年1月23日交付
 (起業方法)   自作及小作開墾/自初年至二年小作人十五戸移住済

 以上の情報から、鈴木先生が書かれた三重県立農林学校を退職後2年間空白のある略歴と違い、野田義三郎氏は大正4年(1915)3月末に退職後、すぐに農場開設に着手したようです。野田農場が「友愛農場」とも「学園農場」とも言われたとおり、最初は農林学校卒業生達と共に開拓を始め、そこに小作人15戸を移住させたのでしょう、大正7年(1918)1月には成功証明を受けていたことがわかりました。(当時、国から払下げを受けた土地は一定期間中に開墾し、成功したと認定されなければ没収される仕組みになっていました。)
 この大正7年の成功証明交付が、後に農場発足として伝わった可能性はあると思います。 
 彼は大正5年(1916)1月に最初の奥さんと離婚していますが、本州から未開の北海道、それも奥地の野付牛に住まいを移すことについて、家庭内で一悶着あったのかもしれません。
 それと注意したいのは「現住所」が「野付牛町3條通東4丁目65番地」とあることです。大正12年(1923)発行の『野付牛総覧』付録「野付牛電話早見表」では住所が「北三東五」とあります。1丁違いで、どちらも仁頃通りに接しています。どちらを採用するかとなれば、『野付牛総覧』はこれまで誤記が多見されるので、台帳上の情報「3條通東4丁目」を採りたいと思います。ただし「65番地」とあるのは謎で、残念ながら場所は特定できません。
◇「大正」の発展と野田農場

 後日、道立文書館の方からご提供頂いた野田兄弟の「売払地地番・地積」一覧表によると義三郎氏の9筆は「5566・5567・5568・5570・5571・5572・5574・5575・5576」で、鈴木三郎先生が作成された「地積図」と照合すると全部現在の「大正」にある土地でした。野田氏の農場開拓が、「大正」の発展に大きな功績があったことは間違いありません。
 ですから、年次的に間違いがあったにしても『大正区地誌』等の沿革の初めに「野田義三郎」の名をあげていたのは、功績からみて当然でした。ただ、記述内容が聞取りによるものなのか、事実経過が混乱したまま、不正確に記録されて「史実」となった例でしょう。
 次号は、野田東三郎氏分の土地についてレポートすることにします。(続く)

《中庭だより》☆10月30・31日と釧路市へ私用で行ったついでに、市立釧路図書館に行き、『釧路新聞』の昭和8年(1933)の2月から12月までのマイクロフィルムを閲覧してきました。残念ながら8月分が欠号になっていましたが、新しい発見もありましたので、後日報告いたします。

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