ヌプンケシ204号

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市史編さんニュース NO.204
タイトルヌプンケシ 
平成22年12月1日発行

◎野田儀三郎か?野田義三郎か?(4)
◇野田東三郎氏の土地
 続いて、分筆された兄=野田東三郎氏の持分、一連番号「87ロ」の台帳に記載されていた主な内容は次のとおりです。

 (地   積)   301町5反1畝7歩 5569番地以下23筆
           原 野 125町7反7畝11歩
 (目的地目)   畑
 (経   過)   野田義三郎への譲渡 大正9年6月 5日届出
                           大正9年6月19日名義書換え
           125町7反3畝17歩 
           内2町6反6畝24歩 大正9年6月18日譲渡
            残123町1反17歩 
           内61町4反6畝19歩 大正10年3月1日成功証明交付
           残61町6反3畝28歩 
           内10町9反6畝28歩 大正10年5月30日成功証明交付
           残50町6反7畝 大正15年1月15日成功証明交付
 (起業方法)   自作及小作開墾
 (小作人移住) 大正3年2戸・4年2戸・5年2戸・6年1戸・7年1戸・8年1戸・
           9年1戸・10年1戸 計11戸
 東三郎氏の23筆は「5569・5573・5577・5578・5579・5580・5581・5582・5583・5584・5585・5586・5587・5588・5589・5590・5591・5592・5593・5594・5595・5596・5597」で、「昭和」区の土地でした。小作が入ったのは払下げのあった大正3年(1914)からだったようですが、思うように開墾が進まず、大正9年(1920)に弟の義三郎氏に譲渡することになったのでしょう。
 結局、最終的に開拓が成功するのは大正15年(1926)で、昭和に年号が変わる年の1月でした。
 何はともあれ、「大正」と同様に野田農場が、「昭和」の字名の由来どおり、昭和になって発展する「昭和」地区開発の一基礎になった、と筆者は思っています。
◇その後の、野田農場

 しかし、肝心の野田農場のその後は『北見市史』下巻に書かれた以上の情報は今のところ見つけることは出来ません。借財がかさみ、担保にしていた農場は最終的に北海道拓殖銀行に取られ、解体されたようですが、それがいつの時点か分かる資料はありません。ただ、鈴木先生が作成された「地積図」の「大正」区の部分を見ると、昭和5年(1930)から農民への売却が始まっているようですから、それ以前に所有権が野田氏から拓銀に移動しているようです。
◇野田夫人のピアノ
 ところで、昭和61年(1986)6月発行の『歴史の散歩道』には、後妻になった「すみ」さんについて次のように記しています。
 大正時代「仁頃通りに住んでいた農場主野田儀三郎の夫人澄子は、アメリカ合衆国セントルイスの音楽学校の出で、ピアノと声楽をよくしました。野田夫人の弾くドイツ製のアップライト(たて型)ピアノは、北見最初の、ただ一台のピアノでした。当時はまだ東小学校初代校長海江田金先生が、自らバイオリンを弾いて児童に歌わせたという話が珍しげに伝えられていたくらいですから、ピアノなどまだどこの学校にもありませんでした。」

独唱会写真 「野田夫人もひとり深窓にこもることなく、独唱会(写真)を開いたり、グリフィン社と組んでピアノを提供するなど、社会的な活動も惜しみませんでした。」
 グリフィン社とは、大正末から昭和初めに野付牛で活動した芸術青年のグループです。
 情報源は不明ですが、この記事によれば夫人は米国の音楽学校出身ということです。鈴木先生の記述で、晩年東京でピアノ教授をして生計を立てたとあるのもうなずけます。提示した写真は『歴史の散歩道』にあるもので、夫人のすぐ後ろにいる男性が夫の野田義三郎氏かもしれません。

◇野田夫妻の晩年は不詳
 野田夫妻がいつ野付牛を離れたかは、今のところ情報はありません。昭和4年(1929)7月発行の『野付牛明細図』では、仁頃通りに野田という名は見えません。ただし、昭和6年(1931)に東小学校に入学した水津仁郎氏の記憶では、通学途中に前号で筆者が採った「3条東4丁目」と違う「3条東5丁目」に野田家があって、ピアノの音が流れていたとのことですから、地図には金を払った家しか載らない場合もあるので、その頃まで野付牛にいた可能性があります。
 次に戸籍の移動でたどっていくと、昭和5年(1930)1月17日に東三郎氏が死去して、その跡を継いだ甥の三代目東三郎(為之助)氏の籍「滋賀県蒲生郡日野町大字日田四拾八番地」に、何故か昭和15年(1940)5月11日に埼玉県の籍を廃家して入籍(届出は杉並区から)しています。同年6月21日24歳になった娘の春江さんは養子縁組の形で横須賀にいた実母の立花カクさんに引取られ、ご夫妻は同年10月8日「東京市杉並区中通町四十七番地」に分家しています。
 そして、昭和25年(1950)8月25日に、野田義三郎氏はこの杉並区の本籍で死亡しました。享年73歳でした。鈴木先生の記述と違い、義三郎氏は戦後まで生きていたのです。
 すみさんは、昭和37年(1962)11月28日、親族と同居していた「東京都中央区明石町53番地」で死亡しました。すみさんは明治17年(1884)4月9日生れですから、享年78歳でした。
 こうして死亡年月日まで探索することはできましたが、野付牛を離れて野田義三郎氏がどこで何をしていたのか、具体的に記した資料は何もありません。

◇野田儀三郎(本名・義三郎)

 さて最初の疑問、「野田儀三郎」か「野田義三郎」かについては、義三郎が本名であることは明らかになりました。しかし、『野付牛町誌』にあるように「儀三郎」が通用していたのも事実のようです。昔は本人が縁起をかついで、字画を増やすために「人偏」等をつけて改名することはよくあったことですので、一概に「儀三郎」を間違いと断定することはできませんから、索引で表記するときには「野田儀三郎(本名・義三郎)」が妥当なところだと思います。(完)

《中庭だより》☆前号印刷後の11月12日水津仁郎氏が来室され、野田氏の住所について「3条東5丁目」との証言を頂くことが出来ました。通学途中で聞いた、当時の小学校にない珍しいピアノの音がとても印象的だったそうで、79年前のことが身近に感じられるお話でした。

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