ヌプンケシ238号

 〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹   TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.238

タイトル ヌプンケシ

平成24年5月1日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(9)

◇戦後闇市のモツ料理ブーム

 敗戦後の食糧危機の中、食糧を手に入れるために庶民は買出しに奔走しました。統制品で滅多に手に入らないものは、相当高価であっても闇市で購入するしかありませんでした。闇市での焼き肉関係の事情を、次に佐々木道雄著『焼肉の誕生』で見ていきましょう。

 「肉は、食肉配給統制規則の廃止(昭和二十〈一九四五〉年十二月)によって生産・流通が自由になった。しかし、価格統制は継続されたため、ヤミに流れ高騰した。」

 しかも、本州の「闇市では、精肉より内臓のほうがよく出回った。一頭の牛から取れる内臓の量は精肉よりずっと少ないのに、内臓のほうが多かったのはなぜだろう。」

 その理由は、内臓の大量消費者であった韓国人・朝鮮人の本国帰還でした。「事実、韓国・朝鮮人の本国帰還者は百万人を越えた。その結果、韓国・朝鮮人によって多く消費されてきた牛豚の内臓部位(価格の安い大腸や小腸)の需要が大きく減少した。このダブついた部位の行き先が、闇市や、場末の飲み屋や飯屋などであった。それらの店で、安くてうまいモツ料理が作られると、あっと言う間にブームになった。/そのなかではモツ焼きが人気を集めた。東京ではこれを戦前と同様にヤキトリ(焼き鳥)と呼ぶことが多かった」。

 そのヤキトリ(焼き鳥)の実態は鶏や雀などではなく「焼きトン」で、その「“焼きトン(ヤキトン)„とは……、豚の内臓を串に刺して焼いたものをいい、シロ、ハツ、レバー、ナンコツはそれぞれ、腸、心臓、肝臓、咽頭をさす。この料理が東京では、一九四七~八年頃に流行した。/同じ頃の大阪では、牛のモツ焼きが“ホルモン焼き„と呼ばれ流行した。」

 注意すべきは、当時のヤキトンは串焼き、ホルモン焼きは串焼き又は炒め物だったことです。

◇七輪使用の内臓焼き肉は大阪から

 前掲『焼肉の誕生』によれば、現在の北見と同様の、七輪を使用した内蔵焼き肉は戦前から精肉焼肉を営業していた大阪の「とさや」という朝鮮食堂が最初に始めたそうです。

 「その店が戦後早々に、猪飼野の一条通に移って朝鮮食堂を構えると、『店先にカンテキ(七輪)をいくつも置いて、いつも行列ができる』(有馬てるひ〈ホルモン焼きのルーツ〉『東洋経済別冊 ナニワ万華鏡』一九九九年八月)ほど繁盛したという。」

 「『とさや』ではこのように、戦後早々(四〇年代後半)から、客が自ら焼いて食べる内臓料理を、つまり内臓焼肉を提供してきた。そしてこの店を基点にして、同類の店が近隣から増えていったという。これが、焼肉(内臓焼肉)の発祥の店として知られるゆえんである。」

 「猪飼野は精肉焼肉の発祥の地であっただけに、その料理を身近に感じる人がいたし、牛の内臓料理を好む人も多かった。つまりこの地には、内臓焼肉を誕生させるための条件(料理法の下地の存在、材料の安定的供給、厚い消費層)の全てがそろっていたのである。しかも他のどの地区よりも、条件が整っていたとみることができる。」

 北見では、戦後その内臓焼き肉料理を受け入れる条件が揃っていた、とも言えるでしょう。

◇ホルモン屋から朝鮮料理店へ

 昭和25(1950)にバラック小屋から出発した「力」、昭和31年開店(ただし、平成2年=199011月発行『北見商工名鑑』には昭和32年1月設立とあり。)の「大昌園」を先駆者に、ホルモン焼き屋が安価な「庶民の味方」として登場したことは以前にレポートしたとおりですが、その開拓期時点では当市でもまだ内蔵肉への抵抗感があって、女性層からすぐに支持は得られなかったように思われます。

 当室にある昭和40(1965)代で一番古い市内地図、昭和44(1969)12月発行の昭和45年版『北見局内住宅戸別明細図』をざっと見ると、中心市街地に見られるホルモン焼き・焼き肉店は、力・銀座園・大昌園・明月園・松尾ジンギスカン北見支店くらいのもので、目だって多いわけではありません。

 しかし、ここで注目すべきなのは大昌園、明月園が「ホルモン」をメインとするのではなく、牛肉のカルビ、ビビンバやクッパなどの家庭料理を提供する「朝鮮料理」の店になったことです。これで女性層にも相当受入れやすく、来店できるようになったのではないでしょうか。

 昭和48(1973)2月創業のビアレストラン「リンデ」の名物の一つに、豚のハツ(心臓)、タン(舌)長ネギを炒めたものを熱した鉄皿にのせた「モツ焼き」がありました。これなども当市での内臓肉を食べる文化の普及に功績があったと思います。

◇精肉店出身の焼き肉店の参入

 筆者が考えるのに、当市の焼き肉人気に拍車をかけたのが、新鮮さをセールス・ポイントにした精肉屋出身の焼き肉店が参入してきたことでしょう。昭和43(1968)設立の「味覚園」はご存じ坂口精肉店の直営ですし、昭和4812月創業の「鳥源」も元々は「坂上精肉店」でした。昭和57(1982)開業の「道食」の名も「道東食肉」の略です。「ときわホルモン」も「ときわ精肉店」の直営でした。筆者などは昭和48年就職当時、焼き肉店で「さがり」(横隔膜の筋肉)を食べて、東京とは比較にならない新鮮さとおいしさに驚嘆しました。筆者は本州から旅行できた友達にご馳走するのですが、どなたも当地焼き肉の新鮮さと量の多さに感激します。

◇モツ鍋、ぼんち鍋

 平成2年(1990)11月発行『北見商工年鑑』に昭和52(1977)9月設立とある『四条ホルモン』は、銭湯『鉄鉱泉』のご主人のホルモン好きが高じて始めたものですが、異業種から参入しただけあって、創業からお客さんの上着やコートに焼き肉の匂いがつかないように配慮して、ポリ袋や衣装ケースを用意するなど、色々工夫されていました。同店では「モツ鍋」を洗練させて「ぼんち鍋」としてメニューに加えています。その当市の「モツ鍋」の起源が「屠場鍋」にあったことは前に書きましたが、筆者が周囲の情報を総合すると、それを一般市民が食するようになったのは市職員がよく出入りしていた銀座園が最初だったようで、その後には秀吉、ひまわり、道食などでも提供されて、一般に「モツ鍋」が認知されていったようです。

『ホルモン奉行』表紙◇「焼き肉の街」はまだまだ発展途上

 平成6年(1994)に開店した「ほりぐち」は実家が精肉店だそうで、ここも新鮮さが売りで、それまで市内焼き肉店のメニューになかった「丸ホルモン」が名物になっています。こうして当地焼き肉業界に次々と新顔が現れて、切磋琢磨されることで当市が「焼き肉の街」として発展してきたのでしょう。

 「ホルモン」の歴史に詳しい角岡伸彦著『ホルモン奉行』(新潮文庫)を読むと、世界は広くホルモン料理・焼き肉文化にはこれからも様々な可能性があるようですから、当市などはまだまだ発展途上といって良いでしょう。

 いつもながらの尻つぼみですが、調査続行をお約束して当連載をひとまず閉じます。(完)

《分庁舎だより》☆北海道新聞の管内版特集「焼き肉北見式」第2部が、4月19日で完結しました。この特集は当紙とは違う視点で取材されていて、色々な情報を得ました。たとえば、北見最初のホルモン屋「力」の創業年もわかりました。6月からの第3部も楽しみにしています。()

 

NO.239へ 

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館