ヌプンケシ256号

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市史編さんニュース NO.256

タイトル ヌプンケシ

平成25年2月1日発行


◎大町桂月の北海道旅行(6)

◇ワッカを探訪した、9月3日の日記

 常呂村の大正10年当直日誌9月3日には「一、昨日来村ノ大町桂月氏本朝佐呂間村ニ向ケ、出発。細川書記、漁場実査ヲ兼ネワッカ迄同行。」とあります。桂月の日記は次のとおりです。

    九月三日 くもり
   

馬にてゆく、昨日は幼ちえん 今日は小学校、福島の若人 柴田 細川(村やく)  碧洋 桂月、丘陵の上  ハギ  タテアナ、鐺沸にやすむ。加藤留五郎はつどう船をしたてゝくれる、松田翁とうもろこし、中野氏ウイスキー二本、船上一同くらふ、かきしま(湖口をさかのぼる、冬は口砂にてふさがる、がすかゝりてほろ岩山かすかに見ゆ 最高也 ワッカ(もとえきてい)に上陸、はしけぶねにて 南さつま豪傑 とさ豪傑 どりや十二年あはぬが逢ひに行かうかとて、松田下駄のまゝ也、帽なし 福島と四人にてゆく 堤上草、ふくしま先づ下る、碧洋くだる、老松田下ル、余も下る、左湖、右海、はまなし多し

土佐人 中野宏平 加藤留五郎

かごしま人六十八才 松田三次郎

河村重義 細川元一 柴田喜久哉

加藤氏イシ船主 鐺沸にて 部長河村重義に憩ふ

 

花豆や三里四方に家二軒、

 

奇花異草

草原一望接天空 馬跡輪痕川字通

百里狭洲波浪裡 恍然疑是到龍宮

木はかしは也、微雨至る、横山氏の漁場、土佐犬、日くれたり フレワツカ 赤沼(水赤しとの事)の傍をすぎて夜七時半下湧別につく、のち野地となる、すゝき、すな地にて、進み難し、はまなし、実赤也 花紅に紫がかゝる、ばらと似たり。実にうつくし、漂着せる材木多し、

ライトコロ川 猿澗湖に注ぐライトコロは死人の儀アイノの古戦場なりとの義也、鐺沸はもとアイノ人だか居りし所也、木をきり出す、はつどうせん二つもあり、一〇ジハンタツキチヘユク おほマチ

徳弘正輝下湧別、くさわけ 松田氏鐺沸のくさわけ、

 

 

◇日記を再構成して要約すれば…

 日記といっても桂月のはメモ書きみたいなもので、何を意味しているのか分からない部分も多々ありますが、再構成して要約すれば以下のようなことでしょう。なお、人名に続く( )内は当時の役職等で、参考になると思い、筆者が勝手に書き足してみました。

 「9月3日、くもり 柴田喜久哉(治水事務員)、細川元一(村役場書記)、桂月、碧洋で鐺沸(佐呂間村)まで馬で出かけた。丘陵の上に萩が咲き、タテアナも見られた。鐺沸では河村重蔵(鐺沸区長)宅で一休みした。」

 「佐呂間湖に注ぐライトコロ川の、ライトコロとは死人の意味で、アイヌの古戦場だったということだ。」とありますが、『常呂町百年史』によれば「ライ・トコロ」とは「死んだ・常呂川。つまり常呂川の古川」のことで、昔常呂川が佐呂間湖に注いでいた名残りだそうです。

 「鐺沸はもとアイヌ人だけが住んでいたところだ。木を切り出す(運び出すことか-引用者)発動船が二隻もある。」 

 「鐺沸で加藤留五郎(鐺沸漁業組合長)が所有する発動機船を出してくれて、同乗した薩摩出身の松田三次郎翁(元常呂外六箇村戸長役場初代戸長)がトウモロコシを、土佐出身の中野宏平(漁業組合理事)がウイスキー2本を差し入れて、それを一同船上で飲み食いした。牡蠣島のある湖口から佐呂間湖を遡り、船で進んだ。霧がかかって幌岩山が幽かにみえて最高だ。元駅逓のワッカに、はしけ舟で着岸、一同上陸した。左に湖、右に海、ハマナスが多い。」

 そこで桂月は俳句「花豆や三里四方に家二軒」と、絶景を称えた漢詩を詠みました。漢詩には全く門外漢の筆者が、その漢詩を次に意訳してみました。

 「珍しい花や草の草原は一望するに天空と接し 馬の足跡と車輪のあとが川の字に通り

   百里の狭い洲は波浪のうちにあり 龍宮に通じているのではないかと心奪われた」

  幅200700mの砂嘴(さし=潮流・風などのために、土砂が海岸から細長く延びて海中に突き出たもの)が約20kmにわたって続く海岸草原=ワッカ原生花園に感動した桂月は、その感情を漢詩に託したのです。ここで、桂月が後に「龍宮街道」と名付けたイメージが出てきています。

 「生えている木はかしわだ。こぬか雨が降ってきた。砂地で徒歩では進みにくい。」

 「ハマナスは実が赤い。その花は紅に紫がかかり、薔薇に似て実に美しい。海岸には漂着した材木が多い。」

 「日が暮れた。水が赤い赤沼、フレワツカの側を通って、午後7時半に下湧別についた。」

 最後に「徳弘正輝下湧別、くさわけ 松田氏鐺沸のくさわけ」と書いてありますが、これはワッカに降りた時に松田三次郎が「どりや十二年あはぬが逢ひに行かうか」と言ったのと関係していると思います。松田が12年ぶりに会いにきたのは、「土佐の豪傑」で湧別町の草分けであった「徳弘正輝」のことだったのでしょう。

 なお、「一〇ジハンタツキチヘユク おほマチ」とは、推測するところ翌日出かける先方に打った電文のようですが、詳しくはわかりません。

◇徳弘正輝(とくひろまさてる)の略歴

 徳弘正輝の略歴ですが、安政2年(1855)に土佐藩士の子として生まれ、青年時代は板垣退助の下で自由民権運動に奔走、明治14(1881)一転して北海道開拓を志して来道、湧別に入植。42歳の時には30ヘクタールの大農場に30頭の牛をはじめ多くの家畜を飼い、小作人・使用人を使役する大農場主になりました。アイヌ娘を内妻として、10人の子どもが生まれました。その間、札幌のみならず、東京の官界、政界を訪ねて国策を論じ、「湧別原野第一の開拓成功者」と称えられるようになりました。その後、事業は下り坂となりましたが、アイヌ救済に、村の建設にとその財産を惜しむことなく注ぎ込みました。晩年は息子の家に身をよせ、昭和11(1936)7月2日波乱万丈の人生を終えました。詳しくは、昭和43(1968)3月発行『上湧別町史』をご覧ください。安彦良和の漫画『王道の狗』の登場人物の一人にもなっています。(続く)

 

《分庁舎だより》☆観た方もいるかもしれませんが、1月18日午後7時30分NHKテレビで北見北斗と天理高校のラクビー部O・Bが半世紀ぶり花園で対戦するまでを記録した番組が放映され、その中に当市編集委員久保勝範氏が奮闘する姿もあって、大変元気を頂きました。(誠)

 

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