ヌプンケシ257号

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市史編さんニュース NO.257

タイトル ヌプンケシ

平成25年2月15日発行


◎大町桂月の北海道旅行(7)

◇雑誌『日本青年』誌上では…『龍宮の通路』

 桂月が雑誌『日本青年』に大正10(1921)12月に寄稿した文章「四たび北海道より」では、ワッカ原生花園が次のように紹介されています。

 「北海道には内地に見られぬ奇景少なからず候。先づ第一は大雪山の偉大にして変化に富めることに候。第二は北見の猿間湖に候。周囲二十里に余り、長さ十里もある狭洲を以て、海に接し居り申候。一方は湖水の静かな波、一方はオコツク海の荒浪を左右に見くらべつゝ、果ても知れぬ狭き洲を行けば、唯々人界を離れて、龍宮に旅するかとのみ思はれ申候。天の橋立などは、とても比較になり申さず候。然るに、この天下無類の洲に、名が付き居り申さず、遺憾に存じ申候間、『龍宮の通路』と命名いたし申候。その中央あたりに、清水涌き出づる處有之、その處を『ワツカ』と称し居り候。ワツカとは水の事に候ふが、その発音を借りて、一に『和歌半島』とも命名いたし候。和歌より脱皮して、又一に『歌の長洲』とも命名いたし申候。」

 この文章のあと、野付半島、阿寒一帯の「釧路北部の山水」をあげて、「北海道の四大勝地」としています。勝地とは、地形・風光のすぐれた土地のことです。ワッカ原生花園を2番目に挙げているのは、それだけ桂月には印象が強かったということでしょう。なお、大正時代にはご覧のとおり、佐呂間湖のことを猿間湖、オホーツク海をオコツク海と呼んでいました。この文中にある「北見」とは「北見国」ということで、現在の北見市のことではありません。

◇『北海道山水の大観』で…龍宮街道

 大正12(1923)に発表された『北海道山水の大観』では、「余は茲に大雪山、層雲峡、阿寒嶽、登別温泉、蝦夷富士、大沼公園、猿間湖、野付半島を以て、北海道の八大勝景となさむとす。大沼公園、蝦夷富士、登別温泉は北海道の西部、大雪山、層雲峡は中部、阿寒嶽、猿間湖、野付半島は東部にあり。この八大勝景を探るにつれて足跡もほゞ北海道にあまねかるべき也。」とあります。前記のとおり大正10年には「北海道の四大勝地」と言っていたのが、大正12年には「北海道の八大勝景」と倍になっていますが、これは大正11年にも北海道を旅行、羊蹄山(蝦夷富士)や駒ケ岳に登頂し、北海道南部を再遊して、全体を総括した結果でしょう。

 さて、『北海道山水の大観』で「猿澗湖」=佐呂間湖は次の様に紹介されています。

 

 日本三景の一なる天の橋立は、宮津湾と與謝の海との間に突出せる狭洲にして、その長さ四十二町あり、之に類するものを求むれば、伯耆(ほうき―引用者)の夜見が浜、中の海と美保湾との間に突出して、長さ三里、天の橋立に対して、大天橋と称せらる。なほその大なるものを求むれば、北見の猿澗湖とオホツク海との間に、長洲突出す。長さ十里、天の橋立に九倍し、大天橋に三倍す。幅を云はば、天の橋立は数十間、大天橋は十五六町、この長洲は二三町也。大天橋は幅廣きに過ぐ。橋立といふよりも、寧ろ半島といふべし。長さ十里、幅二三町ならば、長さ四十二間、幅数十間と、ほゞ型を同じうす。九倍の天の橋立と云ひても、名実相応ずる也。殊に大天橋は幅廣きに過ぐる為めに、歩きても左右に水面を見渡すこと能はずして、天橋の実、益欠くれど、天の橋立も九倍の天の橋立も、左右に水面を見る也。

 この九倍の天の橋立に、未だ名あらず。九倍の天の橋立にては、地名として妥当ならず。猿澗湖より取りて、猿澗崎としても好く、猿澗湖とオホツク海との間にあることなれば、猿澗の『猿』とオホツク海の『オ』とを合わせて猿尾崎としても好きが、余は茲に龍宮街道と命名す。余りに奇抜に失す。知らず、世に通用するや否や。

 猿澗湖は平湖の一種なる海岸湖也。周回二十三里、長方形にして、沿岸幾んど出入なく、東南隅に一水海と通ず。下湧別駅に下車すれば直に龍宮街道の入口に達す。初の程は幅廣きが、次第に狭くなる。中頃とても、道路を歩きては、一方の水面のみ見ゆるが、風景を愛するものは足の労を厭はずに、尖れる丘陵の上を歩け。さらば左右に水面を見るを得べし。後には、道を歩きても、水面が左右に見ゆるやうになる也。左も烟波淼茫、右も烟波淼茫、前にも山を見ず。唯是れ龍宮に行くかと思はるゝばかり也。この龍宮街道には、部落なし。楢の木断えては又続く。地には玫瑰(ばいかい=はまなす―引用者)相連なる。その花紅にして、薔薇に似て、野趣を帯ぶ。其実赤くして美麗也。

 朝に下湧別より駅馬を雇ひ、若しくは徒歩にて、夕に常呂に宿するを得べく、その翌日常呂を発し、駅馬若しくは徒歩にて、能取、網走二湖を経て、網走に達するを得べし。

 龍宮街道を味はゝむには、下湧別より常呂へ向はざるべからざるが余は都合ありて、その路を逆に取たることあり。悪詩を作つて曰く
  馬跡輪痕川字通。奇花異草接天空

  百里狭洲波浪裡。恍然疑是到竜宮

 この後も延々と文章が続くのですが、日本三景における「松」の役割と重要性を説いているだけで、当レポートと関係ないので省略します。

 こうして、『北海道山水の大観』で初めて「龍宮街道」の名称が登場して、現在のワッカ原生花園「龍宮街道」が全国に知られることとなりました。

 ここで桂月は下湧別駅から出発して常呂で一泊、網走方面へ向うコースを推奨しています。桂月が大正10年9月3日に歩いたコースとは全く逆です。先の引用文中の「余は都合ありて、その路を逆に取たることあり。」とある、その「都合」とは何だったのでしょうか。

◇従兄弟(いとこ)の林保衛氏に会う

 これを推論すると、大正5年(1916)11月に下湧別・野付牛間に開通した湧別線に下湧別村(現・湧別町)から乗って、明治30(1897)に高知から屯田歩兵第四大隊第三中隊の屯田兵として相内に入地して、一家をなしていた従兄弟の林保衛氏と会う約束があったのでしょう。

 紙面の都合で、9月4日の桂月日記を要約すると「午前十時三十五分発」の汽車で下湧別を離れ、途中「十一時半湧別」(中湧別と思われる。)で徳弘正輝、松田三次郎の二人と別れ、上湧別駅で品川という人と行き違いになりました。同人は遠軽家庭学校関係者、品川義介のようです。同駅で札幌鉄道局、野付牛運輸事務所、野付牛保線事務所のお偉方の挨拶を受けました。

 「午後三時上相ノ内に下り林氏夫妻に迎へらる」。この「上相ノ内」駅とは、昭和2年(1927)12月発行の『相内村誌』の添付地図で位置を確認すると、現在の相内駅のことです。

「相ノ内へゆく。温子湯ルベシベより二里」。その相内で「林保衛 長男静樹二十三才 英子十九才 みつえ十四才 みよ五十才」と家族の紹介を受け、その後は林宅に一泊したと推定されます。桂月の従兄弟である林保衛氏の略歴については、次号でレポートします。 (続く)

 

《分庁舎だより》☆先日、友人から『大町桂月の大雪山』の著者、清水敏一氏が書かれた『大雪山文献書誌』全4巻を見せてもらったのですが、よくもこれだけの文献に目を通しているものだと驚嘆しました。『大町桂月の大雪山』は、その研鑽の成果だったということでしょう。()

 

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