ヌプンケシ258号

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市史編さんニュース NO.258

タイトル ヌプンケシ

平成25年3月1日発行


◎大町桂月の北海道旅行(8)

◇林保衛氏の経歴

 桂月の従兄弟、林保衛氏の経歴を()鈴木三郎先生が作成された『屯田兵名簿』と各種名士録を整理してたどってみることにします。

 林保衛氏は高知県士族、善八郎の長男として明治元年(1868)1126日、高知県土佐郡小高坂村に生まれました。陸軍教導団の出身で、日清戦争にも出征、勲八等に叙せられました。明治30(1897)6月屯田兵として相ノ内二区に移住しました。直に下士官となり、給養班長、学務委員、諮問会員を歴任。明治37年日露戦争が起きると出征、満州各地を転戦し、明治39(1906)3月凱旋、戦功により歩兵特務曹長に栄進、勲六等七級に叙せられ、旭日単光章、功七級金鵄章を与えられました。

 復員後、林氏は土地を処分して野付牛村市街地に出て、明治42(1909)の第一回村会議員選挙、第2回の明治44(1911)、大正4年(1915)の選挙に当選しました。その間、大正2年(1913)には網走支庁管内所得税調査委員にもなりました。大正4年7月9日付で前田駒次が村長に、林氏は収入役に就任します。野付牛村は大正5年4月1日をもって一級町村制を施行して野付牛町となり、初代町長には前田駒次がなり、林氏は引き続き収入役で大正8年(1919)まで在職しました。大正7年大蔵省から認可された一力(いちりき)無尽会社の常務取締役につき、大正10(1921)3月まで在職していました。

初代村長 林 保衛 大正10年4月1日、相内村が野付牛町から分村した際、林氏は初代相内村長に就任しました。桂月が訪問した時、林氏は相内村長で52でした。その後理由は不明ですが、大正11年9月28日に村長を辞任してしまいます。12年には在郷軍人相内分会長、翌13年6月には株式会社野付牛魚菜市場取締役になっています。大正15(1926)7月に相内屯田土功組合が認可されると、林氏は議員に就任しました。同年、12月には開基三十年式典が開催され、林氏は副委員長となりました。林氏は晩年相内村の元老として重きをなし、昭和16(1941)9月3日に逝去しました。桂月よりも長生きして、享年72歳でした。

 桂月が林家に残した書の崩し字は筆者には読めませんが、『歴史の散歩道』にある「大町桂月の書」の解説によれば「郷里で別れてから四十年、図らずもこの北見の地で再会できた喜びの酒杯を交した時、話柄(話題)に上る人の多くは九泉(あの世)に在り」とあるそうです。

◇北海道家庭学校

 9月5日、桂月は遠軽の家庭学校を訪ねます。8月30日の日記に「社名淵 家庭学校農場 留岡幸助」とありますから、予定の行動で前日に上湧別で家庭学校教育主任であった品川義介と打合せするつもりが行き違いになり、「社名淵駅長 品川氏電話 下生田原駅長 品川氏電話」と、途中駅で電話を取り次いでもらって、家庭学校訪問の日程を立てたのでしょう。 

 その家庭学校の概略を、同校からご提供頂いた要覧『社会福祉法人 北海道家庭学校』で見ておきしょう。「創 設/明治32年、東京府巣鴨村に家庭学校を創設された留岡幸助先生は、事業の一層の展開を図って、大正3年、北海道上湧別村社名淵に、国有林1,000町歩の払下げを受け、その分校を開設されました。50町歩は150名を収容する感化事業にあて、750町歩を150戸の小作農に分けて感化事業を支え、200町歩は薪炭用の共有林とし、理想の新農村建設のため、先生は生涯の大事業に着手されました。/小作地は後に解放され、校有地は439町歩となりましたが、壮大な校祖の理想を継承して、私たちは施設の経営と地域の社会活動をその使命と考え、また、独立した近隣の農家も、その地域名を留岡と改め、校祖との深いゆかりを今日に伝えております。」

 次に「沿 革」を一部割愛して引用します。「大正4年 本地方で初めてホルスタイン種乳牛2頭を導入/大正5年 白滝上支湧別に第二農場を開設/大正8年 望の岡に礼拝堂を建立/大正11年 恵の谷に約1町歩の水田を作り、稲作に成功/大正12年 北海道代用感化院となる/昭和5年 社名淵産業組合を結成、地域産業の振興をはかる/昭和9年 北海道庁認可少年教護院となる/昭和23年 児童福祉法施行され教護院として認可を受ける/昭和35年 収容定員を85名とし認可を受ける/昭和43年 社会福祉法人北海道家庭学校の許可を受け、東京家庭学校より分離独立する/平成10年 児童福祉法改正され児童自立支援施設となる/平成21年 公教育導入により、遠軽町立東小学校。遠軽中学校の望の岡分校となる。」

◇留岡幸助

 家庭学校創設者、留岡幸助の略歴については、平成5年(1993)7月発行『北海道歴史人物事典』に次のように紹介されています。

 「留岡幸助 とめおか こうすけ/ 1864(元治元)~1934年(昭和9) 牧師、社会事業家。備中高梁(たかはし)(岡山県高梁市)生まれ。留岡幸助同志社神学校卒業後、1891年(明治24)北海道空知集治監の教誨師(きょうかいし)となり、犯罪の根源を絶ちたいものと1899年東京府巣鴨村に家庭学校を創設。1914年(大正3)その分校として網走支庁遠軽町に北海道家庭学校を開設、監獄改良や少年感化事業の先駆者の1人となり、二宮尊徳の報徳教を地方改良事業の指導原理とし、社会教化の活動にくまなく全国を歩いた。再度欧米にわたり、先進諸国の社会事業や諸制度を研究した。行動半径と校友範囲のけた外れた広さと、社会事業および感化事業の実践の深さをかね備

えた活動家であった。1979年『留岡幸助著作集』(5巻)と、『留岡幸助日記』(5巻)が刊行され、その思想と行動の全容が明らかとなった。」

 留岡の生涯についてもっと詳しく知りたい方は、岩波新書に高瀬善雄著『一路白頭ニ到ル-留岡幸助の生涯-』がありますので、読んでみてください。また、昨年には映画『大地の詩 留岡幸助物語』が村上弘明の主演で公開されました。

◇9月5日の桂月日記

 9月5日の桂月日記もメモ書きみたいなものですが、まずそのメモ書きの前半を羅列します。

 「九月五日 晴、/保衛 留辺蘂マデ 社名淵駅 三島義介(我羊) 留岡幸助 家庭学校農場 道より五町入る 樹下庵 恵の谷 命の泉 望の岡 クロバー オランダレンゲ カシワ 白楊 礼拝堂 林間教会堂 牛舎、馬、ぶた、楽山庵ぼくちくのぎし、紅葉庵 秋田女史‐富豪の女 同志社大学女子部 独想庵予定地 両方に清水 掬泉寮 品川氏と生徒少年 石上館 青年 掬泉館の博物館 石蔟、石斧 土器 しやくし 石剣、石臼、/品川氏 鈴木氏 駅に送る/七百五十町三百町ひらく/平和の山1 五日山2 緑山3 三山九谷 留岡氏もと空知集治監の教誨師、」ご覧のとおり、言葉のパズルです。詳しくは次号で解説します。(続く)

 

《分庁舎だより》☆筆者が図書館勤務時代に、道立文書館で大変お世話になった佐藤京子さんが、退職後、札幌から家庭学校へ奉仕で史料整理に通われていて、今回大町桂月の家庭学校関係で資料をご提供頂き、感謝しています。市史編纂には、こうした人との連携も大切ですね。()

 

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