ヌプンケシ261号

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.261

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


大町桂月の北海道旅行(11

 前号で明らかにしたとおり、大正10(1921)9月11日を飛ばし、12日のこととして桂月の日記が書かれていましたが、その後の日記を点検しても、訂正した様子はありません。筆者が確認しようにも、手元に適当な資料がありませんので、日付は日記のままにして、この連載も思ったより長くなりましたので、桂月の北海道旅行の後半を駆け足で辿ることにします。

◇釧路から根室へ、根室から厚岸へ

 9月14日に釧路の臼田と言う人のところに身を寄せた桂月らは、15日の朝6時には根室に向けて汽車で出発。16日には船で野付半島に行く予定でしたが、当てにしていた船が予定より早く出て一日棒にふってしまいました。17日には汽車で西和田駅まで戻り、現地の人の案内で風蓮湖を見物しました。18日には海霧が出ていましたが、鈴木商店根室缶詰所の発動機船で根室から尾岱沼まで行き、その後、少年の漕ぐ舟に乗って野付半島の沿岸を見てまわりました。湾内は浅く、藻草が一杯でエビが多いことを特記し、「発動船及ばぬ入江えび躍る」との句も記しています。翌日の19日は曇、雨で外出せず、来客に対応、学校で講演をしています。20日は書会、午後4時20分の汽車で根室から厚岸に向かい、9時半に宿屋に着きました。

 9月21日、厚岸は雨で外出せず、来客の対応と、それまで会った人に揮毫したかどうかのチェックをしています。22日は曇でしたので、舟で牡蠣島に行き、珊瑚草(厚岸草)を見ました。講演が終わった後、有力者の別荘で酒宴をして厚岸を離れ、釧路に午後10時半に着きました。

◇釧路から発動機船で標茶へ

 9月23日には、船で釧路川を溯り、阿寒方面に旅行する計画であったようですが、前日釧路に戻ってきてから午前2時半まで臼田と碁を打ったために、朝6時発の船に間に合わず、この日も一日ごろごろしていました。ヒマなので、夜は新婚家庭を冷やかしに出かけたようです。

 昭和32(1957)9月発行の『釧路市史』によると、釧路川に旅客用の発動機船が登場するのは大正5年(1916)4月からで、「当時はいわゆるポンポン蒸気といって、焼玉エンジンを使用し、上り十時間、下り六時間という一日がかりではあった」そうで、「大正十年ころの輸送量は『釧路発達史』によると、一年間の航行回数は二七〇回、乗客人員二,七〇〇人、降客一,八九〇人で、相当な利用を度示している。」とあります。なお、この航路は昭和2年(1927)に釧網線が標茶まで開通するのに合せて廃止されました。

 24日は定刻の6時の船に乗り、午後3時半に五十石に着きました。そこからは徒歩で、道路の両側は樹林で人家はありませんでした。しかし、しだいに畑が見え、子どもの声や馬の声が聞こえるようになり、午後5時に標茶に着き、鈴木操と言う人の家に世話になりました。

 25日も鈴木宅に滞在、午後書会、夜は講演をしました。

◇標茶から弟子屈へ

 9月26日、朝8時に鈴木を案内人に徒歩で出発。護衛のためか、後から標茶の巡査部長が追ってきて同行しました。途中、馬車に乗せてもらい、10時に熊牛村を通過、1020分に磯分内の駅逓につきましたので、馬を四頭仕立ててもらい、11時に駅逓の少年の案内で弟子屈に向かい、午後1時半に着き、投宿、温泉に入りました。帝室林野管理局札幌支局上川出張所の技師や技手、役場の職員が挨拶に来ました。よほど寒かったらしく「風強く樹をふく、黄葉せずして飛ぶ、恰も十二月の気候也」と書いています。

 9月27日は明け方が暴風雨でしたが、10時になって止んだので、当別温泉に出かけました。相当景観が気に入ったらしく「自然の神園也」と賞賛しています。ここで昼食を摂った後、弟子屈に戻り村内各所を案内されました。そこで東京風の言葉を流暢に話す、アイヌ女性の数奇な身の上話も直接聞いたようです。

◇屈斜路湖畔に向け、出発

 9月28日8時40分、カイヨー、アイノ二人のアイヌを案内人にして、桂月達は馬で出発しました。進むに従って樹がまばらになって、眺望が開けました。途中、三角点があったので登り、1120分屈斜路湖の湖水が見え、頂上で昼食。雄阿寒、雌阿寒が見えました。ここで桂月は山椒魚を初めて見ました。1時20分出発。神山に登るために2時30分下馬、3時頂上に達しました。4時近くに出発。7時に札友内の宿につきました。

 8時、個人で公園や不動堂を開設した柳沼萬之助に招待され、11時星を眺め、馬に揺られながら宿に戻りました。カイヨー54歳の容貌を「だるまの如し」と評しています。

◇屈斜路湖畔に着く

 9月29日9時、徒歩で出発。途中で2回休憩し、尾札部尋常小学校長、館野善朗が自転車で迎えに来ました。(この頃の自転車と言ったら、ハイカラな値の張る高級品でした。)その一帯はアイヌの保護地とのことでしたが、アイヌ達は耕作をしないで、原木の流送や軍馬補充部の熊追いに雇われているとのことでした。

 屈斜路尋常小学校には1時半に着きました。校長は阿部治平。生徒は男15人、女12人の計27人で、半分がアイヌの子どもでした。アイヌの子どもは、和人と変わりなく、体格もよく、力も強くて、走るのも速いと書いています。この学校で昼食。

 その後、アイヌの踊りを見物。それが終わると、和琴半島を舟で遊覧。黒瀧善三郎宅の夜食の席で、アイヌのタブーや、神について話を聞いたようです。11時、就寝。

◇屈斜路を遊覧して川湯へ

 9月30日、朝から小雨、霧でしたが、宿を出発した7時には止んでいました。和琴の浜に出ると雨が降ってきましたので、温泉小屋に雨宿りをし、そこで桂月は知恵遅れの女性と出会い、少し話をしました。

 8時半、現地アイヌを案内人に舟で出発。中島を回り、北岸で昼食。「さくら、紅葉、かへでの紅葉、桂の黄葉、左手の円山、流紋岩の絶壁」など湖上の風景を堪能して、仁伏に上陸、温泉を見ました。歩いて5時に川湯に着きました。川湯は草津に似ていると感想を記しています。

◇硫黄山へ

 10月1日、7時半に宿を出たのですが、道を間違えたのか、10時に硫黄山に着きました。湯川が平地を流れ、轟音がとどろき、「全山みな硫黄、フン火口三つ、大小活火口、数百也」と硫黄山の威容に驚いた様子です。また「明治十九年より、十年間、安田善次郎」とあるのは、硫黄山での安田財閥による硫黄採掘事業の説明を受けたようですが、小池喜孝著『鎖塚』に「人間の血を吸う硫黄山」と見出しがあるとおり、この採掘に釧路集治監の囚人たちが使役され、劣悪な労働環境で失明する者や死亡者が続出しました。詳しくは同書を読んでください。

 火口と火口の間で昼食。その後、桂月一人硫黄山の頂上に登り、先発した一行と午後5時に宿(弟子屈?)に着きました。藻琴山登山も考えましたが、連日霧で断念したようです。(続く)

 

 

 

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.262

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(12

◇山越えして阿寒湖へ

 大正10(1921)10月2日、弟子屈で講演と書会。午後3時半、馬で出発。午後5時、尾札部のコタンに着き、尾札部尋常小学校の館野校長宅を宿にしました。

 10月3日、晴。午後7時、桂月、館野校長、鈴木操、碧洋と、ガイドのアイヌたち、矢野勝太郎・古畑豊太郎(農太郎ともある)で出発、尾札部川上流を目指しました。渓流で勝太郎が突き棒でカジカやアメマスを獲りました。昼食後、滝をよじ登り、1時半に尾根に到達しました。そこから谷底に下りて、また谷を溯ると雄阿寒やペンケトーやパンケトーが見えました。5時10分、急斜面を真っ直ぐ下りはじめましたが、日が暮れた上に、倒木や笹原が障害になり、難行苦行の連続でした。豊太郎が帽子を失くして動かないのを、なだめすかしたりもしました。やっと阿寒湖に通じる道を見つけ、湖のきわにたどりつき、7時10分火を焚き、夕食。桂月は8時半には寝ましたが、11時に寒さで目が覚め、二度寝するような有様でした。

 10月4日も晴。桂月は5時起床。5時50分に出発。この日も大変な目に会うと覚悟していたのが、思いのほか簡単に道が見つかって大喜びしました。湖口に新しい小屋があり、人は見かけませんでしたが、鍋、ムシロ、鉄砲が置いてありました。8時10分、江部津別に着きました。左手にアイヌが網を乾す家が2軒あり、その内の1軒の老婆と勝太郎がアイヌ語で会話しました、豊太郎は出来ませんでした。そこでアメマス四尾買い、舟を手配したらしく、湖内の東岸、西岸を巡り、人家が数十戸ある阿寒湖半の、山浦政吉の旅館に着き、無臭無味の温泉に入りました。昼食後、3時、船頭付の帆かけ舟で世界無類の玉藻、つまりマリモを見にでかけ、帰りは3人が漕いで5時半に帰りつきました。湖上からは藻琴山が見えました。

 マリモは明治30(1897)、まだ札幌農学校(現・北海道大学)在学中であった植物学者川上瀧彌(たきや)が阿寒湖シュリコマベツ湾で発見、翌年植物学雑誌で採集記録と和名〈毬藻〉を発表し、一般に知られるようになりました。大正10年3月には天然記念物に指定され、マリモが全国的な話題になった時期に、桂月は実物を見学に行ったことになります。

◇雌阿寒岳登山

 105日、晴。7時20分、雌阿寒岳登山に出発しました。桂月が花丸二つと評価した勝太郎とは「東京へ来い。」と声をかけて別れ、アイヌの猪狩茂助が案内人になり、館野、鈴木、碧洋が同行しました。川また川を渡り、一里で木材小屋を過ぎ、紅葉の密林、熊笹を越えて、10時ルベシベの別れ道につきました。そこから右に下り火口壁へ。キツネに出会い、実がたくさんついたガンコーランが目につきました。噴煙が数十条見え、次は左に上がり、絶頂につき、そこから右に行ってアンヨロ沼へ。引返して焚き火をして昼食。絶頂からは阿寒富士、雄阿寒、阿寒湖は見えましたが、屈斜路湖は見えませんでした。1時50分に出発。南の火口に下りました。底には赤沼、青沼、黒沼があり、沸騰していました。帰り道で山鳥を捕獲。館野だけ一人別れてルベシベに行きました。5時15分木材小屋を通過し、6時10分帰着しました。東京陸地測量部出張員、熊谷建二(健二ともある)も参加して、山鳥を食べました。熊谷からは阿寒富士など周辺の山や湖の標高を教えてもらいました。案内人の茂助は春採湖生まれの和人との混血児で、桂月としては意外だったのか、酒を飲まない、と日記に書いてあります。

◇阿寒湖畔から、発電所へ

 10月6日、晴また曇。8時、船頭つきの帆舟でボッケなど湖の名所を遊覧。同行したのは、旅館主の山浦、熊谷、鈴木、碧洋でした。滝口近くでは鷹が鴨を襲う瞬間も目撃しました。12時、宿に帰りました。午後1時半、釧路への帰路につきました。一時間半で七曲坂を下り、雄阿寒の麓に出ました。阿寒川に沿って南下、一歩園牧場の門を出ると川が濁りました。途中にあった発電所の取水口からは、川に水がありませんでした。4時40分、ルベシベ駅逓を出発。道路両側の山は絶壁で、樹がよく繁り、黄葉紅葉。夕焼けの紅が美しい。次の飽別(あくべつ)駅逓に着く頃には、すっかり暗くなっていました。そこで発電所への道を聞き、5町ばかり引返して、教えられた岐路から暗い道をたどると電灯がありました。その余りの明るさに目を覆って進み、6時に発電所に着き、宿をお願いしました。標茶二泊、弟子屈三泊、奔塘一泊、川湯一泊、弟子屈一泊、尾札部一泊、野宿一泊、湖畔二泊、発電所は十三泊目にして、はじめて電灯を見ました。(なお、弟子屈、奔塘、川湯には◎の評価が記されています。)対応してくれたのは「北海道電気株式会社 朝倉俊景、第一発電主任 只野」でした。

 ここに出てくる水力発電所は、大正9年(1920)9月運転を開始した飽別発電所のことです。読者の皆さんも阿寒・釧路間の「まりも国道」をドライブ途中、この発電所を見たことがある筈です。このほか阿寒川流域には、徹別(てしべつ)発電所(大正11年7月運転開始)、蘇牛(そうし)発電所(大正1412月運転開始)、上飽別発電所(昭和4年2月運転開始)がありますが、いずれの発電所も大正9年に創業した日本製紙株式会社釧路工場の電力需要に対応したものでした。桂月らは泊りがけで、その当時最新の水力発電所を見学にいったのでしょう。

◇舌辛村(したからむら)

 10月7日、晴。午前6時半に発電所を出発。(当該日の記事は記述が前後混乱していて、桂月本人でないと分らない点がありますが、無理に推理して書いてみます。)まず、道路に出て近くの茶亭(ここは2日前に雌阿寒で別れた館野の義母の店?)で馬車を手配したようです。茶亭には足の短い小犬がいて、ワンワン言うので菓子を与えました。トウモロコシを食べていた幼児にも菓子をやろうとしたのですが、食べませんでした。そのかわりに腹痛で学校を休んでいた女の子が母親より前に菓子を取りにきました。そんなことがあった茶亭を7時20分に出発。次に半里下のある茶亭か店で煙草を入手した模様です。そこでは馬車の御者に対してか、白絞油を一缶買ってきてくれという女がいたり、茶亭が手紙を託したりしていました。この日は学校へ行くことになっていて、三人の出迎えがあり、一人が馬で先導しました。舌辛川を渡ると、戸長細川政雄、校長小川吉雄、石川嘉助、もう一人の老教師の迎えをうけ、舌辛駅逓に12時に着きました。館野とも会いました。館野は桂月らと一人別れてから道中で熊の新しい糞を見つけたりしながら、連絡に舌辛の学校へ寄って、夜9時に義母の家へ着いたとのことでした。 

 桂月一行が発電所に泊まった6日の夜は、鈴木が道の途中で背中のブランデーを落としたので、桂月は仕方なく酒なしとなりました。しかも、その夜は50間にわたり川水が無いことについて、流送業者から発電所への談判があって、双方の責任者が来て混雑していたようです。

 乗った馬車も馬がよく屁をひった上に、上舌辛を出発して間もなく脱線しました。平地だったので馬車は倒れませんでしたが、少し先の小橋だったら怪我をしただろうと記しています。

 7日の夜は、細川政雄、中川伊助、三浦金次郎、阿部鐵五郎、小川吉雄ら、地元の人達と会食しました。そこで桂月は飲みたかったお酒にありつくことが出来たことでしょう。(続く)

 

 

 

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.263

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(13

◇石炭を産出した舌辛村

 大正10(1921)10月7日に桂月一行が到着した舌辛村は、現在の釧路市阿寒町です。この地域に石炭があることは明治22(1889)の北海道庁による地下資源調査で明らかになり、明治29(1898)から小規模な採掘がありましたが、本格的な採掘は明治36(1903)からでした。この石炭搬出のために、明治37年舌辛-大楽毛間18kmに馬がトロッコを引く馬車軌道が敷設され、旅客の輸送にも利用されました。この初期の炭鉱は炭層が薄く、大正9年(1920)から休止状態となり、同12年に閉山してしまいました。それに伴い、馬車軌道も廃止されました。

◇舌辛村から釧路へ

 10月8日、くもり、晴。この日は午前中に書会を開きました。(前日は午後2時から講演)12時に先に述べた馬車軌道で舌辛を出発。振り返って見ると、阿寒富士、雄阿寒の頂上が見えました。トロッコ2台に(戸長、鈴木、桂月)(館野善朗、碧洋)で分乗しました。牽引する馬の左の後足が傷ついていて遅く、そのために後発の旅客トロッコに追いつかれてしまいました。反対側から来るトロッコとも何度も行きあいましたが、線路をお互いに譲りあっていました。

 午後3時16分、汽車で大楽毛を出発、釧路に着きました。近江屋に泊まり、109日も滞在して、来客の相手をしていたようです

◇汽車で一気に小樽へ

 1010日、雨。朝8時10分に釧路を発ち、夜10時に小樽に着きました。見送りに鈴木、館野、臼井、吉島、中村が来てくれました。

 小樽に着くまで、桂月は大正7年(1918)発行のアイヌの物語を読み、興味深いアイヌ語やアイヌの人口、アイヌ学校の数などをメモしています。

 車中で偶然、出雲時代の教え子、道庁の川の係に務めている赤井(旧姓堀井)兵三郎に逢い、釧路川で獲った鴨をもらいました。また、8日大楽毛から釧路間の列車でもあった土佐人、道庁土木課の島本にも出会いました。彼が言うには、一昨年、奈井江―茶井内間で熊が汽車に向かって立っていたにで轢き殺した。その肉を駅が独占したので保線課と争いになったとのことでした。その肉を貰ったが、色は赤くて綺麗だが、脂が濃くてうまくなかったそうです。

 1011日は雨で、これまで詠んだ俳句、漢詩などを再録したほかは碁三昧でした。12日も雨で書を書いたり、碁を打ったり、次の訪問地積丹からの来客等の相手で終わったようです。

◇積丹半島の野塚へ

 1013日、晴。鈴木(雅号)竹村、田所碧洋が同行して6時42分小樽を出発、余市に7時20分に着き、馬車で港に行きました。9時20分、発動船で余市を出発。荷物が船積みされる間に、小舟から7、8尺のマグロが起重機で別の発動船に積み込まれるのを見ました。11時古平に着き、1150分に三國に着きました。

 余市より古平までは断崖の連続で、引込んだ所の浜に人家がありました。紅葉、黄葉、ローソク岩、鼻垂岩などを眺め、感想を記しています。当日は晴天でしたが、波が高く、乗客の多くが吐き、桂月はそのとばっちりをうけて閉口しました。乗客は次々寄港先で下船し、最後には元気の良い桂月一行3人のほか2人の計5人となり、嘔吐物を片付け清々したようです。宝島、観音崎を右に見て、美國に入港し、昼食を取りました。

 午後2時に美國を出発、観音崎に向かいました。急坂を登りきると、陰気な顔をした娘がいた一番目の茶屋があり、そこからは高原になっていました。右に小山、左に積丹岳を見て、一里でだんご茶屋、十里で小さな茶屋がありましたので、そこで休みました。幌武意(ホロムイ)への道があったと記していますから、昔の「小樽茶屋」現在の婦美のところにあった茶屋のようです。山うるしの木、山ブドウは低く這い、みな紅葉していました。白茅も高く茂り、白く数里四方に広がっていました。積丹川を渡り、右手に丸山。川がいくつもあって、夕陽が美しくまばゆいので洋傘を差しました。齊藤藤五郎(弧城)、石山勘七が出迎えた。他に余別の池田六蔵の代理も出迎えた。野塚に5時10分に着きました。ここで一泊しました。代理人は余別に帰りました。

◇大綿津見神社の由来

 1014日、晴。日記の最初に、来岸の大綿津見神社の由来を次のように記しています。

 文治5年、源義経がここらに来た時、海が荒れたので、風神、海神に祈ったところ、雲霧の中に神が現れて波が静まりました。そのご神体は神威の立岩となりました。義経は上陸して、アイヌ人「東犯」を殺し、降伏した者を先導者にして利尻島に達しました。天正年間松前の豪族蠣崎慶廣が福山に遥拝所を建て、同年間地頭藤倉近兵衛が志屋丹賀武威明神と称しました。文化2年松前正神主白島(白鳥ともある。-引用者)遠江守が神主となって、一年一回本殿(岩)に奉仕することとなりました。慶応2年積丹郡の守護神として来岸(ライキシ)神殿拝殿を建てました。明治3年大綿津見神社と改称、明治8年積丹郡郷社となりました。

 安政3年に神威岬を梨本彌五郎という幕府の役人が、箱館奉行支配下元締めに転じて宗谷詰を命じられて、初めて妻子を伴い神威岬を越した話も書いています。それまでは源義経がアイヌ酋長の娘と親しくなりながら、別れを告げずに去ったのを恨んで、娘の霊が日本の女子が来るのをはばんだ云々の伝説があったようです。

 インターネットを見ると、この神社は現在も積丹町に「神威神社」として現存しています。

 午前9時野塚を出発。荷物が増えて、碧洋が人夫を雇おうという。道は平らかだが、風景は平凡だ。10時に休憩、鮑を取る舟があったので、鮑を買い、生で食べていたところ、鳥が一羽近付いてきたので、鮑を投げると嘴に受けて食べました。

 トンネルをいくつか過ぎて、神威岬を観て、来岸に着き、余別村長深田猪七郎の出迎えを受けました。前記の大綿津見神社を社掌山口文太郎の案内で参拝しました。立派な宮殿でした。1210分、余別に着きました。医者の池田六蔵(六象)、桑折順治(書会)も出迎えました。 

 日記後半は、芸妓とめ子・福丸などに囲まれた山二料理店での酒宴の様子を記しています。

◇神威岬見物

 1015日、晴。午前8時すぎ村長の深田が宿にきて、漁業の三浦宅に同行。櫓、櫂で動く舟で神威岬を見に行きました。小半島で絶壁、海蝕されて立った神威岩の岩々やトンネルが見えました。灯台職員の妻が波にさらわれて死んだ話も聞かされました。岸に舟を着けて、灯台に登りました。2分で一回転、4千燭光、高さ250尺。磯に下りて焚き火をし、ウニ、鮑、貝などを採って酒宴。桂月だけが貝を採る際に手を怪我しました。その外は暖かくご機嫌だったようです。港には午後2時半に着き、3時には宿に帰り、書を書きました。夜は十人で句会、12時に終り、孤城、竹村は帰り、寝たものの小川の音が耳につき寝られませんでした。(続く)

 

 

  

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.264

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(14

◇入舸(いりか)村に一泊

 大正10(1921)1016日、晴。西風が強い。積丹丸に乗せてほしいと話していたのが、風が強いためか、置き去りにして出発してしまい、人夫を雇って歩いて行くことにしました。深田村長、池田六蔵などが余別橋まで見送ってくれました。野塚から日司(ひづか)まではトンネル、奇岩の連続でした。途中、日司校長小野寺武夫の出迎えを受け、入舸では村長鹿目徳親、郵便局長岡本重任、校長石山勘七らが出迎え、12時半に齊藤丈雄宅に投宿。齊藤丈雄の祖父、彦三郎は弘化4年に岩内に来て出岬(でさき)村を事業地として、明治18年に角網を発明し、一般に広まり、大正7年、道庁より開道五十年記念式で表彰されました。午後は学校で講演、書会。夜に入り、村長の相手で齊藤宅に戻りましたが、風はなお強く、十六夜の月が明るく見えました。

◇古平町へ

 1017日、晴。この日も風が強く、舟はでませんでした。9時半、釣竿を持って、峰づたいに出岬まで出かけましたが、道が悪く転ぶこともありました。局長が同行した老僧に「地獄の道はこれより悪いか。」と問えば、老僧は「往来が多いから、もっと良いだろう。」と答えたそうです。磯まで下りて女郎子岩を眺め、火を焚き、釣上げた魚などでしばし酒宴となりました。道路に出て、入舸の人達と橋の上で別れました。小樽茶屋で一服、夕焼けで山の色が美しい。日が暮れて月も出、峠の一番目の茶屋には心配顔の娘はおらず、月下に、美國、宝島、黄金山などが見えました。宿屋に入り、古平で待つ医者の川本章作に電話をしたところ、町はずれの橋で案内の男と会うことになり、午後8時過ぎに川本宅に着きました。そこには町長三上良知、巡査部長植木靭負、藤澤勇蔵、署長(警部)澤瀬神吉、齊藤兼太郎(古平の富豪)、芸妓二人が待っていました。1018日も晴で、無風。この日も古平に滞在、講演したようです。

◇余市町へ

 1019日、雨。明け方に目を覚ませば風雨でした。7時に起きた時には雨は止んでいましたが、空は怪しく曇っていました。船の出発時刻までに余裕がありましたので、散髪に行き、そこで一老人が「日本一の先生が来た。」と言われた、と桂月もまんざら悪い気がしなかったのか、書き残しています。川本宅より老婆が迎えに来て、急に酒食することになりました。署長の迎えで分署にも寄ってから、はしけ舟で乗船しました。少女が泣きながら乗船したのが印象的でした。船には日司・野塚の両校長も同乗しました。波が高く、船がうねって船酔いする者が続出しましたが、桂月と禿げた男だけが酔いませんでした。雨中、蝋燭岩も見ましたが、神威岩に比べて高くは見えませんでした。船は港に着き、町の助役鈴木八十八が迎えに来ていて、馬車に乗って午後3時に宿屋(服部旅館)につきました。そこには菱田緑彌が来ていました。

 1020日、曇。終日宿屋にいて来客の相手をしていたようです。21日は晴、午後講演としか書いてありません。22日も晴、夜になって甥の大町政利が来たことを記している程度です。

◇東倶知安村(現・京極町)の褐鉄鉱山へ 

 1023日、晴。11時半、余市を汽車で出発。同行者は菱田、大町政利で、小澤駅で下田豊松が乗ってきました。倶知安で乗換えて、東倶知安に向かいました。宿屋では先行していた碧洋、孤城に会い、菱田は宿に残ることになりました。大町政利の案内で下田と共に、鉱山のある脇方に向かいました。鉱山では、主任の福原弘はじめ職員達が出迎えました。山々には切株が多く、紅葉し、鉄鉱がうずたかくありました。事務所で少し休んで鉱山を見学。鉱泉が噴出して、緑のミドロは髪のように長く、くらまごけは水中に青く、水際は銹色に赤く染まっていました。泉の噴出量が多く、アイヌが温泉と間違えて報告し、探索して鉄を発見しました。

 この鉱山は大正5年(1916)に三井鉱山が採掘権を得て、採掘を始めていました。『大町桂月の大雪山』によると、甥の大町政利はその鉱山に技術者として勤務していて、大雪山での桂月遭難騒ぎの時に旭川にいたのですが、無事帰還後のどんちゃん騒ぎで桂月とゆっくり話が出来なかったので、帰路には必ず自分の所に立寄るように約束していたとのことです。 

 翌24日も鉱山に在泊。午前揮毫、夜は十人で宴。羊蹄山の山容も、鉱山職員の案内で見ることができたようです。

◇函館へ

 1025日、晴。羊蹄山は真っ白、地上に大霜を見ました。鉱山を1130分に出発。山をでて蝦夷富士(羊蹄山の別名)を望み、實に気持ちの良い日本晴れでした。倶知安まで、大町政利、下田らが見送りについてきました。比羅夫を過ぎれば川に沿って走り、分れてトンネル、午後4時半頃に長万部に出て、噴火湾が視界に入ってきました。室蘭の日和山は小さな孤島のように湾上に浮んでいました。夜に入ると、ただ細い波が見えるだけでした。大沼公園の楓葉夜の錦のようでした。午後9時に函館に着き、勝田旅館に投宿。夜には雨になっていました。

 1026日、晴。午後3時半から自動車に桂月、丸田菊守(木石)、永瀬潔、田所貢が同乗して、五稜郭、敷地が広い菅谷氏別荘(元奉行の邸宅)を見てまわりました。桂月の日記には「はいけいに杉、五稜郭、函館毎日新聞一萬號きねん」とあるので、函館毎日新聞社の企画行事だったかも知れません。

 1027日、曇。朝食後、旅館主の未亡人、小僧、女中らの栗拾いを、碧洋と手伝いました。男が木に登ったり、棒でおとし、女たちが拾いました。未亡人からは40年続く女だけの懇親会「白無垢会」の話を聞かされたようです。夜は、旅館が感謝の酒宴を開いたようです。

 1028日、曇。書会と来客の対応で一日終ったもようです。

◇日本海側の寿都へ

 1029日、晴。三井、碧洋、木石と1040分発の汽車に乗りました。大沼公園、駒ヶ岳の風景を楽しんでいたようです。車中、母は雑誌を読み、4歳の男の子がものを食いながら「赤い山をご覧なさい。」と言ったのを聞き、神童みたいだと感心しています。内陸部を過ぎて、噴火湾の海岸線に出て、森駅に12時半着、7分停車。次は黒松内で乗換え、午後4時出発。

 現在の地図では鉄道は寿都まで通っていませんが、資料を見ると地元の人達が協力してニシンと鉱石の輸送等を目的に大正7年(1918)8月に「寿都鉄道株式会社」を設立、翌年7月に起工、大正9年(1920)1024日に寿都・黒松内間の路線が開通しました。その一年後に、桂月はこの寿都鉄道で寿都入りしたことになります。寿都では、山本旅館に泊まりました。なお、寿都鉄道は豪雨災害で昭和43(1968)運行休止、昭和47(1972)に廃止されてしまいました。

 1030日、曇り、雨。前日に会った有力者たちのメモでしょう。「町長、土谷重右衛門、 町役員、松田尚次、 鈴木信三、医  幹事長 若狭音之助」とあります。この日は12時より、書会。夜は講演。その後に歓迎会があり、「○こしま、秀香、ぼたん、はしめ」などの芸妓に囲まれ、追分節を聴き、踊りを観て桂月はご機嫌だったようです。(続く)

 


 

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.265

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(15

◇黒松内から、旅行の終点函館へ

 大正10(1921)1031日の日記には、何か気分を害するものがあったのか、「午後黒松内へ、澤田利吉、◎名取龍蔵」としかメモがありません。11月1日も同様で「晴/講演、書会」だけです。

 11月2日、晴。「午前十一時七分発黒松内、午後三時、/函館、五稜郭、噴火わん、羊蹄山を望む、菅谷」とありますが、どこに宿泊したかは不明です。有力者の菅谷という人物の家に世話になったのかもしれません。

 11月3日の日記は「晴/菅谷叶子、午前書、/小笠原松次郎夫妻来る、湯の川へ去る、晩方、田所、永瀬と共に千人ぶろ、四間に、七間」とあり、この日もどこに宿泊したか分りません。

 11月4日、雨のち晴。「三かひの上、放牛、雨中に立つ、湯川、田所氏の主人、高橋栄三郎来る、菅谷別荘に立よりはこだて、夜勝田にてかく、」とありますから、この日の夜には函館の勝田旅館で書を書いていたようです。

 11月5日、曇。この日の午前は丸田木石の友人、浅見稲香へ書を書いてから、世話になった菅谷、新聞社などを自動車でお礼に回り、その後は函館市内の名所を周遊見学したようです。図書館にも立寄っています。八幡宮を訪ね、函館戦争の記念碑なども見たようです。

 11月6日、曇。午前7時半、林濁川、三井順三郎、丸田木石、浅見稲香、田所貢、永瀬潔のの見送りを受けて、連絡船で函館を離れ、12時には青森に着きました。港には出迎えの人々が待っていました。7月11日夜函館に上陸して以来、一夏を北海道で過ごし、初冬の11月に青森へ着いたからでしょう、桂月は「八甲田山上雪すでに白し」と感慨を記しています。

 帰途、十和田湖を探勝後、16年ぶりに奥入瀬渓谷の蔦温泉に寄り、1219日帰京しました。

◇アルコール中毒で精神病院に強制入院

 これまでご覧になったように、北海道旅行中の桂月には、いつも金魚の糞か寄生虫のように酒飲みの取り巻きがついて回っていたのですから、幾ら書会で金を稼いでも、酒代が足らなかったことでしょう。その上に行く先々では毎日のように歓迎会があったわけで、これでは全く酒の気が切れることはなかったでしょう。

 そのためか、大正7年(1918)5月にもアルコール中毒で精神病院に1か月入院しているのですが、大正11(1922)になると桂月は酒の上での失敗が続き、4月には仙台での揮毫会で世話になった料亭の座敷で揮毫した襖などを墨でメチャクチャに汚して、東京行の切符一枚で放り出される酒乱事件まで起こし、再び5月9日から16日まで強制入院させられてしまいました。

◇大正11年にも北海道へ

 それでも精神病院退院直後に計画していた富士登山を決行し、9月26日には従者なしで再度来道、前年できなかった羊蹄山と駒ケ岳の登山を試み、10月1日には羊蹄山、10月3日には駒ケ岳に登頂しています。紙面の関係で割愛しますが、その経過も『桂月全集』別巻の日記に克明に記録されています。これらの記録から、桂月の登山に対する情熱と執念が並々ならぬものであったことが伺えます。

 (なお、『大町桂月の大雪山』の「登山年表」204ページで駒ケ岳登頂を「10月4日」としていますが、日記との照合では同書42ページにあるとおり「10月3日」が正しいようです。)

◇当時としては驚きの北海道大旅行

 最初筆者も短期で常呂・野付牛の部分の旅行記を紹介して終るつもりが、ついつい長くなり、読者の皆様も少々お疲れになったのではないでしょうか。

 しかし、連載してみて、日程はともかく、旅行先の交通機関なども事前に十分調べて、大正10年当時利用可能な鉄道・駅逓・船などを活用した大旅行であったことを確認させられました。

北海道地図

 現在の北海道地図を広げて、層雲峡、大雪山、網走、佐呂間湖、ワッカ原生花園、北海道家庭学校、斜里、野付半島、屈斜路湖、阿寒湖、雌阿寒岳、積丹半島、寿都、函館とその旅行先を目で追うだけでも、大正時代の本州の人達には知られていない秘境への大冒険であったことが分ります。また、当時高名であった桂月の来訪を喜んで大歓迎し、気前よく旅行に協力する北海道の有力者たちの姿も見えました。おかげさまで大正時代に北海道の自然、風景が広く全国に知られることになったわけですから、感謝ですね。

 また、後で紀行文を書くための基礎データになっているのでしょうが、これまでご覧のとおり、日記には必ず天候が書かれ、懐中時計を持参していたのか、旅の出発時刻と到着時刻を記録しています。当時の読者が紀行文を読んで、旅行を思い立った時の参考になったことでしょう。小学校の時に、夏休み日記の天気もろくに記録したことない身としては、頭が下がります。

 筆者が日記を読んだ限りでは、桂月は犬や子どもが好きで、他人に悪態をついた様子もなく、アイヌとも別け隔てなく付き合っていたようです。『桂月全集』別巻所載の紀行文などを今読んでみても、ユーモアがあって当時の青年達が好んで読んだのも肯けました。桂月はお酒にだらしなく、思想的に偏狭だった以外は、案外好人物だったのかも知れません。

◇「常識」を資料で確認の必要性を痛感

 さて、今回の連載は『桂月全集』別巻の日記を基礎資料にしたわけですが、これも清水敏一氏が『大町桂月の大雪山』でご紹介がなければ、筆者は知らないままに過ごしたことでしょう。また、常呂図書館でも別巻の関係部分をコピー保存していたことも、連載中に知りました。

 大町桂月については「層雲峡の名付け親」「龍宮街道の名付け親」云々と「常識」程度しか知らないのに、そのままにしてきたのも怠慢であったと反省しています。ただし、『桂月全集』の何巻かは当市中央図書館でも所蔵しているのですが、別巻は道立図書館にしかありませんでした。そのような貴重な資料・図書類をどのように確保するかも、今後の課題であります。()

 

 

▲上

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館