ヌプンケシ263号

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市史編さんニュース NO.263

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(13

◇石炭を産出した舌辛村

 大正10(1921)10月7日に桂月一行が到着した舌辛村は、現在の釧路市阿寒町です。この地域に石炭があることは明治22(1889)の北海道庁による地下資源調査で明らかになり、明治29(1898)から小規模な採掘がありましたが、本格的な採掘は明治36(1903)からでした。この石炭搬出のために、明治37年舌辛-大楽毛間18kmに馬がトロッコを引く馬車軌道が敷設され、旅客の輸送にも利用されました。この初期の炭鉱は炭層が薄く、大正9年(1920)から休止状態となり、同12年に閉山してしまいました。それに伴い、馬車軌道も廃止されました。

◇舌辛村から釧路へ

 10月8日、くもり、晴。この日は午前中に書会を開きました。(前日は午後2時から講演)12時に先に述べた馬車軌道で舌辛を出発。振り返って見ると、阿寒富士、雄阿寒の頂上が見えました。トロッコ2台に(戸長、鈴木、桂月)(館野善朗、碧洋)で分乗しました。牽引する馬の左の後足が傷ついていて遅く、そのために後発の旅客トロッコに追いつかれてしまいました。反対側から来るトロッコとも何度も行きあいましたが、線路をお互いに譲りあっていました。

 午後3時16分、汽車で大楽毛を出発、釧路に着きました。近江屋に泊まり、109日も滞在して、来客の相手をしていたようです

◇汽車で一気に小樽へ

 1010日、雨。朝8時10分に釧路を発ち、夜10時に小樽に着きました。見送りに鈴木、館野、臼井、吉島、中村が来てくれました。

 小樽に着くまで、桂月は大正7年(1918)発行のアイヌの物語を読み、興味深いアイヌ語やアイヌの人口、アイヌ学校の数などをメモしています。

 車中で偶然、出雲時代の教え子、道庁の川の係に務めている赤井(旧姓堀井)兵三郎に逢い、釧路川で獲った鴨をもらいました。また、8日大楽毛から釧路間の列車でもあった土佐人、道庁土木課の島本にも出会いました。彼が言うには、一昨年、奈井江―茶井内間で熊が汽車に向かって立っていたにで轢き殺した。その肉を駅が独占したので保線課と争いになったとのことでした。その肉を貰ったが、色は赤くて綺麗だが、脂が濃くてうまくなかったそうです。

 1011日は雨で、これまで詠んだ俳句、漢詩などを再録したほかは碁三昧でした。12日も雨で書を書いたり、碁を打ったり、次の訪問地積丹からの来客等の相手で終わったようです。

◇積丹半島の野塚へ

 1013日、晴。鈴木(雅号)竹村、田所碧洋が同行して6時42分小樽を出発、余市に7時20分に着き、馬車で港に行きました。9時20分、発動船で余市を出発。荷物が船積みされる間に、小舟から7、8尺のマグロが起重機で別の発動船に積み込まれるのを見ました。11時古平に着き、1150分に三國に着きました。

 余市より古平までは断崖の連続で、引込んだ所の浜に人家がありました。紅葉、黄葉、ローソク岩、鼻垂岩などを眺め、感想を記しています。当日は晴天でしたが、波が高く、乗客の多くが吐き、桂月はそのとばっちりをうけて閉口しました。乗客は次々寄港先で下船し、最後には元気の良い桂月一行3人のほか2人の計5人となり、嘔吐物を片付け清々したようです。宝島、観音崎を右に見て、美國に入港し、昼食を取りました。

 午後2時に美國を出発、観音崎に向かいました。急坂を登りきると、陰気な顔をした娘がいた一番目の茶屋があり、そこからは高原になっていました。右に小山、左に積丹岳を見て、一里でだんご茶屋、十里で小さな茶屋がありましたので、そこで休みました。幌武意(ホロムイ)への道があったと記していますから、昔の「小樽茶屋」現在の婦美のところにあった茶屋のようです。山うるしの木、山ブドウは低く這い、みな紅葉していました。白茅も高く茂り、白く数里四方に広がっていました。積丹川を渡り、右手に丸山。川がいくつもあって、夕陽が美しくまばゆいので洋傘を差しました。齊藤藤五郎(弧城)、石山勘七が出迎えた。他に余別の池田六蔵の代理も出迎えた。野塚に5時10分に着きました。ここで一泊しました。代理人は余別に帰りました。

◇大綿津見神社の由来

 1014日、晴。日記の最初に、来岸の大綿津見神社の由来を次のように記しています。

 文治5年、源義経がここらに来た時、海が荒れたので、風神、海神に祈ったところ、雲霧の中に神が現れて波が静まりました。そのご神体は神威の立岩となりました。義経は上陸して、アイヌ人「東犯」を殺し、降伏した者を先導者にして利尻島に達しました。天正年間松前の豪族蠣崎慶廣が福山に遥拝所を建て、同年間地頭藤倉近兵衛が志屋丹賀武威明神と称しました。文化2年松前正神主白島(白鳥ともある。-引用者)遠江守が神主となって、一年一回本殿(岩)に奉仕することとなりました。慶応2年積丹郡の守護神として来岸(ライキシ)神殿拝殿を建てました。明治3年大綿津見神社と改称、明治8年積丹郡郷社となりました。

 安政3年に神威岬を梨本彌五郎という幕府の役人が、箱館奉行支配下元締めに転じて宗谷詰を命じられて、初めて妻子を伴い神威岬を越した話も書いています。それまでは源義経がアイヌ酋長の娘と親しくなりながら、別れを告げずに去ったのを恨んで、娘の霊が日本の女子が来るのをはばんだ云々の伝説があったようです。

 インターネットを見ると、この神社は現在も積丹町に「神威神社」として現存しています。

 午前9時野塚を出発。荷物が増えて、碧洋が人夫を雇おうという。道は平らかだが、風景は平凡だ。10時に休憩、鮑を取る舟があったので、鮑を買い、生で食べていたところ、鳥が一羽近付いてきたので、鮑を投げると嘴に受けて食べました。

 トンネルをいくつか過ぎて、神威岬を観て、来岸に着き、余別村長深田猪七郎の出迎えを受けました。前記の大綿津見神社を社掌山口文太郎の案内で参拝しました。立派な宮殿でした。1210分、余別に着きました。医者の池田六蔵(六象)、桑折順治(書会)も出迎えました。 

 日記後半は、芸妓とめ子・福丸などに囲まれた山二料理店での酒宴の様子を記しています。

◇神威岬見物

 1015日、晴。午前8時すぎ村長の深田が宿にきて、漁業の三浦宅に同行。櫓、櫂で動く舟で神威岬を見に行きました。小半島で絶壁、海蝕されて立った神威岩の岩々やトンネルが見えました。灯台職員の妻が波にさらわれて死んだ話も聞かされました。岸に舟を着けて、灯台に登りました。2分で一回転、4千燭光、高さ250尺。磯に下りて焚き火をし、ウニ、鮑、貝などを採って酒宴。桂月だけが貝を採る際に手を怪我しました。その外は暖かくご機嫌だったようです。港には午後2時半に着き、3時には宿に帰り、書を書きました。夜は十人で句会、12時に終り、孤城、竹村は帰り、寝たものの小川の音が耳につき寝られませんでした。(続く)

 

 

  

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市史編さんニュース NO.264

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(14

◇入舸(いりか)村に一泊

 大正10(1921)1016日、晴。西風が強い。積丹丸に乗せてほしいと話していたのが、風が強いためか、置き去りにして出発してしまい、人夫を雇って歩いて行くことにしました。深田村長、池田六蔵などが余別橋まで見送ってくれました。野塚から日司(ひづか)まではトンネル、奇岩の連続でした。途中、日司校長小野寺武夫の出迎えを受け、入舸では村長鹿目徳親、郵便局長岡本重任、校長石山勘七らが出迎え、12時半に齊藤丈雄宅に投宿。齊藤丈雄の祖父、彦三郎は弘化4年に岩内に来て出岬(でさき)村を事業地として、明治18年に角網を発明し、一般に広まり、大正7年、道庁より開道五十年記念式で表彰されました。午後は学校で講演、書会。夜に入り、村長の相手で齊藤宅に戻りましたが、風はなお強く、十六夜の月が明るく見えました。

◇古平町へ

 1017日、晴。この日も風が強く、舟はでませんでした。9時半、釣竿を持って、峰づたいに出岬まで出かけましたが、道が悪く転ぶこともありました。局長が同行した老僧に「地獄の道はこれより悪いか。」と問えば、老僧は「往来が多いから、もっと良いだろう。」と答えたそうです。磯まで下りて女郎子岩を眺め、火を焚き、釣上げた魚などでしばし酒宴となりました。道路に出て、入舸の人達と橋の上で別れました。小樽茶屋で一服、夕焼けで山の色が美しい。日が暮れて月も出、峠の一番目の茶屋には心配顔の娘はおらず、月下に、美國、宝島、黄金山などが見えました。宿屋に入り、古平で待つ医者の川本章作に電話をしたところ、町はずれの橋で案内の男と会うことになり、午後8時過ぎに川本宅に着きました。そこには町長三上良知、巡査部長植木靭負、藤澤勇蔵、署長(警部)澤瀬神吉、齊藤兼太郎(古平の富豪)、芸妓二人が待っていました。1018日も晴で、無風。この日も古平に滞在、講演したようです。

◇余市町へ

 1019日、雨。明け方に目を覚ませば風雨でした。7時に起きた時には雨は止んでいましたが、空は怪しく曇っていました。船の出発時刻までに余裕がありましたので、散髪に行き、そこで一老人が「日本一の先生が来た。」と言われた、と桂月もまんざら悪い気がしなかったのか、書き残しています。川本宅より老婆が迎えに来て、急に酒食することになりました。署長の迎えで分署にも寄ってから、はしけ舟で乗船しました。少女が泣きながら乗船したのが印象的でした。船には日司・野塚の両校長も同乗しました。波が高く、船がうねって船酔いする者が続出しましたが、桂月と禿げた男だけが酔いませんでした。雨中、蝋燭岩も見ましたが、神威岩に比べて高くは見えませんでした。船は港に着き、町の助役鈴木八十八が迎えに来ていて、馬車に乗って午後3時に宿屋(服部旅館)につきました。そこには菱田緑彌が来ていました。

 1020日、曇。終日宿屋にいて来客の相手をしていたようです。21日は晴、午後講演としか書いてありません。22日も晴、夜になって甥の大町政利が来たことを記している程度です。

◇東倶知安村(現・京極町)の褐鉄鉱山へ 

 1023日、晴。11時半、余市を汽車で出発。同行者は菱田、大町政利で、小澤駅で下田豊松が乗ってきました。倶知安で乗換えて、東倶知安に向かいました。宿屋では先行していた碧洋、孤城に会い、菱田は宿に残ることになりました。大町政利の案内で下田と共に、鉱山のある脇方に向かいました。鉱山では、主任の福原弘はじめ職員達が出迎えました。山々には切株が多く、紅葉し、鉄鉱がうずたかくありました。事務所で少し休んで鉱山を見学。鉱泉が噴出して、緑のミドロは髪のように長く、くらまごけは水中に青く、水際は銹色に赤く染まっていました。泉の噴出量が多く、アイヌが温泉と間違えて報告し、探索して鉄を発見しました。

 この鉱山は大正5年(1916)に三井鉱山が採掘権を得て、採掘を始めていました。『大町桂月の大雪山』によると、甥の大町政利はその鉱山に技術者として勤務していて、大雪山での桂月遭難騒ぎの時に旭川にいたのですが、無事帰還後のどんちゃん騒ぎで桂月とゆっくり話が出来なかったので、帰路には必ず自分の所に立寄るように約束していたとのことです。 

 翌24日も鉱山に在泊。午前揮毫、夜は十人で宴。羊蹄山の山容も、鉱山職員の案内で見ることができたようです。

◇函館へ

 1025日、晴。羊蹄山は真っ白、地上に大霜を見ました。鉱山を1130分に出発。山をでて蝦夷富士(羊蹄山の別名)を望み、實に気持ちの良い日本晴れでした。倶知安まで、大町政利、下田らが見送りについてきました。比羅夫を過ぎれば川に沿って走り、分れてトンネル、午後4時半頃に長万部に出て、噴火湾が視界に入ってきました。室蘭の日和山は小さな孤島のように湾上に浮んでいました。夜に入ると、ただ細い波が見えるだけでした。大沼公園の楓葉夜の錦のようでした。午後9時に函館に着き、勝田旅館に投宿。夜には雨になっていました。

 1026日、晴。午後3時半から自動車に桂月、丸田菊守(木石)、永瀬潔、田所貢が同乗して、五稜郭、敷地が広い菅谷氏別荘(元奉行の邸宅)を見てまわりました。桂月の日記には「はいけいに杉、五稜郭、函館毎日新聞一萬號きねん」とあるので、函館毎日新聞社の企画行事だったかも知れません。

 1027日、曇。朝食後、旅館主の未亡人、小僧、女中らの栗拾いを、碧洋と手伝いました。男が木に登ったり、棒でおとし、女たちが拾いました。未亡人からは40年続く女だけの懇親会「白無垢会」の話を聞かされたようです。夜は、旅館が感謝の酒宴を開いたようです。

 1028日、曇。書会と来客の対応で一日終ったもようです。

◇日本海側の寿都へ

 1029日、晴。三井、碧洋、木石と1040分発の汽車に乗りました。大沼公園、駒ヶ岳の風景を楽しんでいたようです。車中、母は雑誌を読み、4歳の男の子がものを食いながら「赤い山をご覧なさい。」と言ったのを聞き、神童みたいだと感心しています。内陸部を過ぎて、噴火湾の海岸線に出て、森駅に12時半着、7分停車。次は黒松内で乗換え、午後4時出発。

 現在の地図では鉄道は寿都まで通っていませんが、資料を見ると地元の人達が協力してニシンと鉱石の輸送等を目的に大正7年(1918)8月に「寿都鉄道株式会社」を設立、翌年7月に起工、大正9年(1920)1024日に寿都・黒松内間の路線が開通しました。その一年後に、桂月はこの寿都鉄道で寿都入りしたことになります。寿都では、山本旅館に泊まりました。なお、寿都鉄道は豪雨災害で昭和43(1968)運行休止、昭和47(1972)に廃止されてしまいました。

 1030日、曇り、雨。前日に会った有力者たちのメモでしょう。「町長、土谷重右衛門、 町役員、松田尚次、 鈴木信三、医  幹事長 若狭音之助」とあります。この日は12時より、書会。夜は講演。その後に歓迎会があり、「○こしま、秀香、ぼたん、はしめ」などの芸妓に囲まれ、追分節を聴き、踊りを観て桂月はご機嫌だったようです。(続く)

 


 

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市史編さんニュース NO.265

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平成25年4月30日発行


◎大町桂月の北海道旅行(15

◇黒松内から、旅行の終点函館へ

 大正10(1921)1031日の日記には、何か気分を害するものがあったのか、「午後黒松内へ、澤田利吉、◎名取龍蔵」としかメモがありません。11月1日も同様で「晴/講演、書会」だけです。

 11月2日、晴。「午前十一時七分発黒松内、午後三時、/函館、五稜郭、噴火わん、羊蹄山を望む、菅谷」とありますが、どこに宿泊したかは不明です。有力者の菅谷という人物の家に世話になったのかもしれません。

 11月3日の日記は「晴/菅谷叶子、午前書、/小笠原松次郎夫妻来る、湯の川へ去る、晩方、田所、永瀬と共に千人ぶろ、四間に、七間」とあり、この日もどこに宿泊したか分りません。

 11月4日、雨のち晴。「三かひの上、放牛、雨中に立つ、湯川、田所氏の主人、高橋栄三郎来る、菅谷別荘に立よりはこだて、夜勝田にてかく、」とありますから、この日の夜には函館の勝田旅館で書を書いていたようです。

 11月5日、曇。この日の午前は丸田木石の友人、浅見稲香へ書を書いてから、世話になった菅谷、新聞社などを自動車でお礼に回り、その後は函館市内の名所を周遊見学したようです。図書館にも立寄っています。八幡宮を訪ね、函館戦争の記念碑なども見たようです。

 11月6日、曇。午前7時半、林濁川、三井順三郎、丸田木石、浅見稲香、田所貢、永瀬潔のの見送りを受けて、連絡船で函館を離れ、12時には青森に着きました。港には出迎えの人々が待っていました。7月11日夜函館に上陸して以来、一夏を北海道で過ごし、初冬の11月に青森へ着いたからでしょう、桂月は「八甲田山上雪すでに白し」と感慨を記しています。

 帰途、十和田湖を探勝後、16年ぶりに奥入瀬渓谷の蔦温泉に寄り、1219日帰京しました。

◇アルコール中毒で精神病院に強制入院

 これまでご覧になったように、北海道旅行中の桂月には、いつも金魚の糞か寄生虫のように酒飲みの取り巻きがついて回っていたのですから、幾ら書会で金を稼いでも、酒代が足らなかったことでしょう。その上に行く先々では毎日のように歓迎会があったわけで、これでは全く酒の気が切れることはなかったでしょう。

 そのためか、大正7年(1918)5月にもアルコール中毒で精神病院に1か月入院しているのですが、大正11(1922)になると桂月は酒の上での失敗が続き、4月には仙台での揮毫会で世話になった料亭の座敷で揮毫した襖などを墨でメチャクチャに汚して、東京行の切符一枚で放り出される酒乱事件まで起こし、再び5月9日から16日まで強制入院させられてしまいました。

◇大正11年にも北海道へ

 それでも精神病院退院直後に計画していた富士登山を決行し、9月26日には従者なしで再度来道、前年できなかった羊蹄山と駒ケ岳の登山を試み、10月1日には羊蹄山、10月3日には駒ケ岳に登頂しています。紙面の関係で割愛しますが、その経過も『桂月全集』別巻の日記に克明に記録されています。これらの記録から、桂月の登山に対する情熱と執念が並々ならぬものであったことが伺えます。

 (なお、『大町桂月の大雪山』の「登山年表」204ページで駒ケ岳登頂を「10月4日」としていますが、日記との照合では同書42ページにあるとおり「10月3日」が正しいようです。)

◇当時としては驚きの北海道大旅行

 最初筆者も短期で常呂・野付牛の部分の旅行記を紹介して終るつもりが、ついつい長くなり、読者の皆様も少々お疲れになったのではないでしょうか。

 しかし、連載してみて、日程はともかく、旅行先の交通機関なども事前に十分調べて、大正10年当時利用可能な鉄道・駅逓・船などを活用した大旅行であったことを確認させられました。

北海道地図

 現在の北海道地図を広げて、層雲峡、大雪山、網走、佐呂間湖、ワッカ原生花園、北海道家庭学校、斜里、野付半島、屈斜路湖、阿寒湖、雌阿寒岳、積丹半島、寿都、函館とその旅行先を目で追うだけでも、大正時代の本州の人達には知られていない秘境への大冒険であったことが分ります。また、当時高名であった桂月の来訪を喜んで大歓迎し、気前よく旅行に協力する北海道の有力者たちの姿も見えました。おかげさまで大正時代に北海道の自然、風景が広く全国に知られることになったわけですから、感謝ですね。

 また、後で紀行文を書くための基礎データになっているのでしょうが、これまでご覧のとおり、日記には必ず天候が書かれ、懐中時計を持参していたのか、旅の出発時刻と到着時刻を記録しています。当時の読者が紀行文を読んで、旅行を思い立った時の参考になったことでしょう。小学校の時に、夏休み日記の天気もろくに記録したことない身としては、頭が下がります。

 筆者が日記を読んだ限りでは、桂月は犬や子どもが好きで、他人に悪態をついた様子もなく、アイヌとも別け隔てなく付き合っていたようです。『桂月全集』別巻所載の紀行文などを今読んでみても、ユーモアがあって当時の青年達が好んで読んだのも肯けました。桂月はお酒にだらしなく、思想的に偏狭だった以外は、案外好人物だったのかも知れません。

◇「常識」を資料で確認の必要性を痛感

 さて、今回の連載は『桂月全集』別巻の日記を基礎資料にしたわけですが、これも清水敏一氏が『大町桂月の大雪山』でご紹介がなければ、筆者は知らないままに過ごしたことでしょう。また、常呂図書館でも別巻の関係部分をコピー保存していたことも、連載中に知りました。

 大町桂月については「層雲峡の名付け親」「龍宮街道の名付け親」云々と「常識」程度しか知らないのに、そのままにしてきたのも怠慢であったと反省しています。ただし、『桂月全集』の何巻かは当市中央図書館でも所蔵しているのですが、別巻は道立図書館にしかありませんでした。そのような貴重な資料・図書類をどのように確保するかも、今後の課題であります。()

 

 

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