ヌプンケシ39号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.39
タイトルヌプンケシ
平成15年1月1日発行

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。39-kado

◎北見の芝居ことはじめ(2)
 
前号は、素人演芸会のことをお伝えするだけで終わってしまいましたが、あの素人歌舞伎も戦争がなく、北見劇場が存続し、定期公演されていたら、北見名物の一つになっていたのではないかと、思われてなりません。
 さて、今回は北見劇場で上演された芝居で特筆すべき作品を書いておきましょう。
◇ ロマン・ロラン作・片山敏彦訳『愛と死との戯れ』
『ベートーベンの生涯』や『ジャン・クリストフ』で有名なフランスの作家で、芸術・音楽評論家、反戦主義者でもあったロマン・ロラン(1866〜1944)が大正14年(1925)に発表し、片山敏彦(1898〜1961)が同年12月に翻訳を完了した革命劇『愛と死との戯れ』が、本邦で初演された記念すべき劇場が北見劇場だったのです。この戯曲は、干渉戦争に対して、ロベスピエールによる独裁政治で対応したフランス革命を舞台に、革命議会議員で天才科学者のクールヴァジェと若い妻ソフィーの家に、政治犯として逃亡中である妻の恋人ヴァレーが現れる。それを隣人が密告してしまう。こ
39-romanのような政治の理想と現実が錯綜する危機的状況の中で、3人が真実と愛を求める姿を描いています。最初、ドイツとオーストリアの劇場で上演されて成功を収め、フランスでは1928年1月29日(ロランの誕生日)にパリの国立劇場オデオン座で初演されました。岩波文庫として第1刷が昭和2年(1927)10月出版されて以来、現在も第47刷を数える古典になっています。
◇ グリフィン社
 
北見でこの芝居を公演したのは、グリフィン社の面々でした。
 昭和60年4月10日付け北海道新聞夕刊で「グリフィンというのはギリシャ神話に出てくる怪物です。なにか得体の知れないことをやろうと温根湯の国沢謙蔵君(花水荘グランドホテル元会長)や
39-gurif伊藤二郎君(北洋相互銀行相談役)らを誘ってつくったのが大正十三年(1924)です。」と語っているのは元衆議院議員で名誉市民になった永井勝次郎さん(1901〜1987)です。永井さんは戦前、地元新聞記者として健筆を揮っていました。「そのころは音楽を聴いたり絵を見たりすることがなく、文化的にひもじい思いをしたのでいろんなことをやりました。
洋画や写真を集めてきて河西軒という洋食屋で展覧会をやったり伊藤君がバイオリンを弾いて音楽をやったり?。夜学もやりましたよ。野中(野付牛中学、現北見北斗高)の仮校舎の空いているのを借りて、ぼくが地方自治の講義をして。1年も続かなかったけどね。これは河西軒のオヤジだった河西貴一(後に道議)という人が金を出したんですよ。」
 この文化団体は昭和4・5年ごろまで活動が続いたようです。メンバーには、この他に青木憲太郎(中央校教師)、山本鷹氏らがいたようです。「彼らは自分たちの手による音楽会や展覧会だけでなく、東京から舞踊家石井獏、声楽家奥田良三などを呼んだりもして、この町の青年に新しい芸術の息吹きを伝えていたのであった。」(『北見市史』上巻)
◇ 北見での公演は大正15年、昭和3年のどちら?
 
永井勝次郎氏は、先の道新記事の中で「演劇もやりました。大正15年(1926年)のことで、北見劇場というところでロマン・ローランの『愛と死との戯れ』。片山敏彦訳です。当時片山先生がフランス留学から帰朝して中央で発表したばかりの劇で、後から『どうして、この片田舎で?』と不思議がられたほどです。」と述べています。下にあるのは、その時の記念写真です。
 『北見市史』年表編には大正15年(1926)8月11日「グリフィン社、ロマンローラン著、片山敏彦訳『愛と死との戯れ』を北見劇場で上演。出演者吉野武子・永井勝次郎・伊藤二郎ら、演出東茂吉。」とあります。
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 これで上演日は大正15年で確定かと思ったら『北見市史』上巻には「昭和3年(1928)、グリフィン社はロマン・ローランの革命劇『愛と死との戯れ』を北見劇場で上演する」とあります。また、『歴史の散歩道』にも、同様に昭和3年と書かれています。『歴史の散歩道』の文章は、昭和51年4月号の広報に掲載されたものですから、市史・上巻の記述はこれを基にしたものと思われ、先日、菅原政雄先生に確認したら、両方とも先生が執筆されたそうです。
 さて、市史・年表編が整備される前に『北見市史年表』が昭和52年10月に発行されており、そこには大正15年上演の前掲記事が見られます。昭和51年4月段階では、「昭和3年」と思われていたのが、何か根拠があって翌年段階で「大正15年8月11日」と年月日を確定したと見られます。それなのに、市史・上巻は年表と整合性をとらないで、広報の記事を基本にしたまま記載したのかも知れません。菅原先生のお話では、当時の関係者たちに聞き取りに行ったそうですが、どなたも上演した日付についてはまちまちで確答はできないとのことでした。
 しかし、永井さんが「中央で発表したばかりの劇」と言っているのに着目すれば、訳が完成したのが大正14年12月ですから、大正15年と見るのが妥当ではないでしょうか。ただし、「帰朝して」云々については、片山敏彦が渡欧したのは昭和4年(1929)〜昭和6年(1931)ですから、永井さんは記憶ちがいをされていたように思われます。
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 「大正15年」も「昭和3年」もどんな資料が根拠か明示がありません。いずれにしろ、これらも確実な資料に基づいて最終的に判断したいと思っています。
◇ 吉田角次と片山敏彦
 では、どうやってこの戯曲を(大正15年となれば、フランスよりも早く)野付牛で上演することができたのでしょうか。市史・上巻に「訳者の片山敏彦が、北見の文化多方面に亘って影響を与えてきた吉田角次(病院長)と縁続き(片山は吉田夫人の妹婿)だった。」ためとあります。吉田角次氏(1888〜1966)は、東京帝国大学医学部卒で大正8年(1919)から野付牛で産婦人科を開業。妻、薫さんは女性運動家・神近市子と津田塾の同窓だったそうですから、上流階級の出身だったのでしょう。この芝居は片山と義理の兄弟となる吉田院長の口利きで上演できるようになったようです。
 こんな時代の最先端にあった芝居を、青年たちの行動力で上演できた野付牛は「文化果つるところ」どころか、「文化発信地」であったのです。

 《中庭だより》 
☆前回、スペースがなく「中庭だより」はお休みで、すみませんでした。さて、11月26日、同志社大学生が、相内出身の憲法学者、久田栄正氏(1915〜1989)について調査に来室。ところが、当方には、ほとんど資料がなく、清水先生が書かれた『ふるさとの歴史を訪ねて』を紹介する程度しかなく、ここでも資料不足、調査不足を痛感しました。なんでも、早大の水島朝穂教授が久田氏の伝記を計画中とか。翌日は現地調査ということで、清野相内支所長さんに協力をお願いしました。いろんなことがありますが、今年もよろしくお付合いください。
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