ヌプンケシ48号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.48
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平成15年5月15日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(3)48-yama
◇伝蔵はどこに住んでいたか?
 4月10日、井上伝蔵一家が住んでいた辺りに神山監督をご案内することになったのですが、関係者の間で「1条西2丁目」と「1条西3丁目」に意見が分かれました。
 ある人は、小池喜孝著『秩父颪』に、藤井商店の藤井今五郎翁の証言として「井上伝蔵っていう人は知らないね。だが話の様子だと、伊藤さんっていう人に似ているな。名前は、なんていったっけ。そうそう房次郎、伊藤房次郎っていって、私の家の裏に住んでいたよ。品の良い人で、あまり外出せず、いつも家の中で、何か書き物などしていたね。/そうそう、息子さんがいてね。洋さんていってたが、うちの店を手伝ってもらったことがあったが、鉄道に採用されたからといって、やめていった」と書かれてあるので、その「私の家の裏」に着目して、現在の藤井商店が大通り西2丁目にあることから、その裏だとすれば「1条西2丁目」だというのです。
 ところが、同じ『秩父颪』には「藤井市五郎(今五郎が正しい—引用者)さんから聞いた、1条西3丁目あたりを、しらみつぶしにあたったが、無駄だった。」とあり、また森山軍治郎氏が書いた『民衆精神史の群像』には、氏が調査に来北した際に「ぼくらもその藤井さんという老人を訪ねて、もう一度場所を確認してきた。目標は古井戸の跡であった」、「駅前の藤井さんのおじいちゃんの話では、そば屋の山福(三福の聞き間違いと思われる—引用者)のあたりに住んでいたというんです」という記述が見られます。(私が母親から聞いた話でも、昔1条で飲める水が出る井戸は「三福」の所にしかなかったそうです。)

 また、現店主、藤井紀一氏のお話では藤井商店が現在地に移転したのは、大正3年5月11日の大火(1条西3丁目から出火、大通り東1丁目、1条東2丁目まで延焼、新市街地340余戸焼失)後で、それ以前は大通り西4丁目で米屋をしていたそうです。また、小池先生が最初に井上伝蔵をリポートした『文芸北見』創刊号(昭和46年1月発刊)掲載のルポ「井上伝蔵の足跡を追って」では、藤井翁の証言として「伊藤さんなら私の店の裏手の、1条西3丁目に住んでいた」とはっきり記しているのです。(「家の裏」と「店の裏手」では、該当範囲のニュアンスが違い、読む人によっては誤解してしまいます。)
画像屯田兵記念帖の市街図 結論として、私は「1条西3丁目」の三福付近を伝蔵が住んでいたところとして、神山監督をご案内しました。
 右の地図は『屯田兵記念帖』にある大正5年頃の市街図です。北6条通りまでしかありません。
 むかしは柾葺の屋根が連なっていたのですから、火事ともなればに燃え広がったことでしょう。
◇伝蔵の末娘、佐藤せつさんの証言では・・・
 ところで、『秩父困民党に生きた人びと』にある伝蔵の末娘のせつさんの聞書「逃亡の父と共に」をよく読むと、伝蔵一家は野付牛にきてからも転居していることがわかります。少々長くなりますが、関係部分を全文載せておきます。
秩父困民党に生きた人びと表紙 「野付牛にまいります時、札幌を出まして、旭川に親類がおります、まだ母の父が存命でございました。ですから、旭川の祖父のところによりまして、一泊か二泊致しました。そして旭川を出まして池田まで来て池田の旅館にもう一晩泊りました。その時、兄と姉が札幌に残りまして、兄が北中にまだ在学中でございましたから、親類かなんかに二人を託したんです。私はすぐ上の姉と弟と母とで、あの、北見の方へ参ったんでございます。“島田とか言う人を頼りに行きなさい”と出入りの商人が言いまして尋ねて参りました。その島田さんは、市場の梶取り、つまり魚の値段を決めたりまとめたりする仕事をしておりまして、私共は、島田さんの家に落着きました。あの時はいろんな人が流れて来ておりました。その後島田さんは車屋になりました。しばらくして私共はそこを離れて、二軒長屋ぐらいのところへ引っ越しました。ところが大火にあってその家がペロリと焼けてしまったんでございますよ。ちょうど、兄が鉄道に勤めていましてね、その兄が網走へ兵隊検査に行ってる留守中のその大火なんです。鉄道の大きな広間に、焼け出された鉄道員の家族がみんなで、一晩やすんだことをおぼえております。そして、民間の家を借りまして、鉄道がその家賃を払ってくれたんです。ですからその後はずっとその生活なんでございますよ。

 あの、購買部がすごくよく行き届いていたんです、鉄道は。まず、母が何より一番先にお金が入ったらお米を買うこと、母の鉄則みたいになっていましたね。だから必ずお米一俵は、鉄道から買うことになっていました。兄もほうぼう転勤になりましても鉄道の購買部から米を送って来ました。
 その頃、私は女学校に入りたくて、もう勉強がしたくて、土地に女学校などございませんでしたから、逓信省というのが札幌にございましたので、試験を受けまして、パスしてそれからは札幌の寮生活です。
 それから近所が全部鉄道の会社みたいになっていたものですから、“せつさん、逓信省より鉄道がいいよ”とみなに言われて鉄道に入ってしまったんです。電信係でございました。
 北見では、商売は致しませんでしたけれども、ただね、火事で焼け出されました時、いろいろな品物を出しました。多少でも、父が出しましたし、みんなで出しました。そして、母が商人の娘だったものですから、店舗を借りまして、そしてそこへ、焼け出された品物をおきましたら、暮になりますと農家の方々が来て、見ましてね、“これ売ってくれないか”といわれて、それから、古物商を始めました。ですけど、商売するにも、鑑札がいるもんですから、北見に参りましてからは、父の名義は出しませんで母の名義でした。だんだんとそういうことがきびしくなってきたんですね。商売するにも」
 せつさんの証言を要約すれば、伝蔵一家は野付牛に来た当初は島田さんという家に厄介になった。次に二軒長屋に住んだが、大正3年の1条西3丁目から出火した大火事で焼け出され、鉄道施設に一時避難。その後、鉄道から家賃の支給を受けて民間の家を借りた。それとは別に母親が店舗を借りて古道具屋をはじめた、ということになります。
 これまでは伝蔵は野付牛に来た当初から古道具屋をやっていたようなイメージだったのですが、せつさんの証言では伝蔵は商売を全然していなかったようです。
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 さて、今回は紙面の都合でここまでとして、次回「島田さん」に草鞋脱ぎをして以降について、考察してみたいと思います。

 《中庭だより》 
☆4月24日、シカゴ在住の松島真澄さんという方から、昭和8年頃の東小学校周辺について電子メールで照会がありました。何でも78歳のお母様が、6月4日、約70年ぶりに北見に来られるとのことです。お母様の旧姓は 「鷲見テル子」さん、昭和8年で東小3年生、4年のはじめに名古屋に転校されたそうです。当時の同級生の方々に会えれば良いのですが・・・。
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