ヌプンケシ53号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.53
title
平成15年8月1日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(8) 画像ひまわりとこどもたち

 今号は井上伝蔵の生涯を『秩父颪(ちちぶおろし)』と題して釧路新聞上に連載し、後世の研究家に多くの手がかりを残してくれた釧路新聞野付牛支局長、岡部清太郎についてレポートしてみたいと思います。
◇岡部清太郎が見た伝蔵
 「高浜の御爺さんが暴徒の首魁?あの柔和な品の善い御爺さんが暴動の大将だなどとは何かの間違いだろうとて、野付牛でこの御爺さんを知る人は容易に御爺さんの井上伝蔵なる事を信じない。ただこうと聞けば鼻の高い口元の引締まった顔、極めて温雅な物越格好殊に言葉使いの上品な所はいかにも志士の面影が偲ばれる。その雑品買という商売に対してますます由緒ある人の果てとうなずかれるのだ。」とは、(原文を読みやすいよう筆者が直しましたが)『秩父颪』冒頭の書き出しです。連載の最終回では、札幌から野付牛に移住して「二,三の営業皆不結果におわって、やむなく雑品買いなどを始めたけれど、長男長女等が鉄道郵便局に奉職したから、一家六人糊口だけには差しつかえる事もなく、野付牛の七年は、深く自ら韜晦してその鋒鋩を現さぬため、何人もこの御爺さんが、秩父暴動の首魁だなどと気付く筈なく、ただ商売柄に似合わず気品の高い雑品屋さん、孝行な子を持った雑品屋さんで通っていた。今春病の床に臥して以来、五人の子の真心からの看護振りは、さすがに父の昔が偲ばれぬでもなかった。」と書かれています。
 この記事を読むと、伊藤房次郎が伝蔵であると正体を告白するまで、一般の人々は雑品屋ではあるが、柔和で上品な「高浜のおじいさん」、「孝行な子を持った雑品屋さん」としてしか見ていなかったことが分かります。
 その伝蔵の人相、人柄、孝行な子ども達など伝蔵一家の様子を知って『秩父颪』を書いたのが、「高浜のおじいさん」=井上伝蔵の「生前から井上一家と懇親の間柄であった」岡部清太郎と考えられています。シベリア出兵に対応した寺内内閣による言論弾圧下、彼は「暴動の首魁等は、いずれも皆手段を誤ったけれど、その心事の高潔は、国事、公共の名に隠れて、私利を謀り、私欲を満たさんとする、今の代議士、政党員らとは、決して同日の論ではない」と伝蔵たちの「思い」を評価し、私利私欲にはしる政治家を鋭く批判しました。
◇岡部清太郎の経歴がわからない。
岡部清太郎写真 さて、その岡部清太郎ですが、小池喜孝著『秩父颪』では「おそらくは、野付牛時代に最も胸襟を開いた相手であり、伝蔵の死後、その告白を『秩父颪』として新聞に連載した岡部清太郎は、『釧路新聞』の支局長であった。岡部は、前田駒次を崇拝する政友会系のジャーナリストで、温厚な人柄だった。岡部は伝蔵の葬儀委員長格(実際は土方常吉が葬儀委員長—引用者)で、葬儀を世話するほど、伝蔵と近しかった。囲碁仲間であり、とりわけ、政治を論じて倦むことのなかった話相手だった。岡部は、伝蔵の見識にうたれ、私淑していたことが、彼が書いた伝蔵死後の筆から分かる。」と書かれていますが、出身地、生年月日、没年などは示されていません。中嶋幸三著『井上伝蔵』も同様でした。
 手持ちの古い名士録を調べ、当市の除籍に当たってみましたが、「該当なし」でした。それで『釧路新聞』の関連で何か資料がないか、釧路市総務部地域資料室に調査をお願いしましたが、「全く不明」とのご回答を頂きました。
 先に掲示した写真は、岡部清太郎が鈴木幸吉ら、全員7名で大正8年5月に山形県人会主催の視察団に参加して帰北後、撮影した記念写真からの切り抜きです。(この山形地方視察は鈴木幸吉の『事蹟録』にも記録されています。)聡明そうな岡部の顔写真はあちらこちらの資料で散見するのですが、しりたい経歴を書いたものには全然ぶつかりませんでした。
 先日、北見新聞に昭和39年4月から昭和40年5月まで連載されていた『街』を複製した冊子をみていましたら、昭和39年5月31日付記事に華道界の歴史が紹介され、「岡部テルさん」という名前があり「岡部さんは生田流の琴の先生として知られているが後年は池坊支部長などの要職をつとめた。岡部さんと景家さんのご主人は共に地元新聞を起こした人である。」、また写真の解説に「先年物故した岡部テルさん」とありました。多分、清太郎の妻である可能性がありましたので、これも除籍を調査してみたのですが、本籍を野付牛に置かなかったのか、これまた「該当なし」で当てが外れてしまいました。
 大正12年刊『野付牛総覧』には、「釧路新聞支局/一条通東三/岡部清太郎」と記されていますが、昭和2年刊の『野付牛商工案内』には「新聞出版業/高 台/岡部清太郎」、昭和8年11月発行の『野付牛名鑑』では「北日本朝日新聞/毎月一回/高 台/岡部清太郎」とありますから、大正末年か昭和のはじめに釧路新聞から独立して、自分で新聞社を起こしたものと考えられます。昭和4年7月発行の野付牛明細図
 昭和4年7月発行の『野付牛明細図』を見ますと通称新井通りに面して岡部の表示がありますが、昭和11年の『野付牛阿寒連絡観光地図』には同地点での表示はありませんから、昭和8年から11年の間に野付牛を離れたか死亡したか、岡部清太郎の暮らしに何かの変化があったのかも知れません。
◇道立図書館北方資料室の所蔵史料から
 最後に未見の資料として、道立図書館に所蔵されている大正11年発行『摂政宮殿下行啓記念 北見之人』を照会したら、7月24日岡部の略歴が送付されてきました。
「明治十年七月二十四日山形県西田川郡鶴岡町大字八日町に生る、父を幸之助と称し君は長男なり中等教育を郷里にて終り明治二十七年渡道一度帰国し明治四十三年再び渡道し来り明治四十三年釧路新聞記者となり同四十四年野付牛支局主任として赴任し来り新聞の外実業に従事す』山形県出身なら前述の視察団に参加したのも道理です。おかげで調査の糸口が見つかりました。
 さて、今号で「秩父事件と井上伝蔵」の連載を一応完結としたいと思います。調査をして知らないことばかりでした。今後ともご指導、ご協力をお願いいたします。

 《中庭だより》 
☆土方常吉の終焉の地が判明しました。札幌市東区役所から頂いた除籍によれば、「昭和拾弐年八月参拾日午後七時参拾分 札幌市南一条東六丁目一番地ニ於テ死亡」とのことです。土方は元治元年(1864)生れですから、昭和12年(1937)で73歳の生涯でした。
☆市内小中学校長さんはじめ皆様には、ご多忙のところ、前川委員による各校沿革調査にご協力頂き誠にありがとうございました。後日、結果が整理され、冊子になりましたら配布いたしますので、その際には点検もよろしくお願いいたします。
☆「戦時ポスター展」を、8月13日(水)〜20日(水)、北網圏北見文化センター2階にある講座室にて開催します。昨年発見された、美術的にも価値ある戦時ポスター20数点を展示いたしますので、ぜひご覧ください。ご来場をお待ちしております。
NO.54へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館