ヌプンケシ56号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.56
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平成15年9月15日発行

◎姉妹都市・晋州市の歴史を知っていますか。

 先日、8月19日、青少年課が担当する「青年ジエット」の事前研修に、当職が講師として参加したことは、前号ニュース《中庭だより》で書きましたが、その研修では時間がなく、韓国・朝鮮と日本の関係について、少ししかお話をすることができませんでした。
 その研修で豊臣秀吉の「朝鮮征伐」の話をちょっとして気がついたのですが、晋州市がその激戦地であったことを知らない研修生が多数いたようでした。実際、姉妹都市と言いながら、北見市民の多くが晋州市の歴史を知らないのが現状だろうと思います。そんなことで、筆者自身の勉強もかねて、今日は晋州市の歴史を少し取り上げてみましょう。
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◇晋州市のホームページ(http://chinju.kyongnam.kr/)から
 晋州市のホームページを、ご覧になりましたか。本編はハングル語ですが、
国際化を意識して日本語・英語・中国語版もある立派なホームページです。
 日本語版に、晋州市長 鄭 永錫(チョン・ヨンソク)氏のご挨拶が次のようにあります。
 「こんにちは。/晋州市長のチョン・ヨンソクです。/晋州市は大韓民国の南部地域に位置し、千年の歴史を誇り、その歴史を守ってきた由緒ある処です。壬辰倭乱(文禄、慶長の役)三大戦捷地の一つである晋州城大捷の英雄・金時敏将軍と、敵将を抱きこんで南江に身を投げて果てた義妓・論介の救国の魂が宿っている忠節の里です。母なる南江の懐で格ある文化を育み
tizu、香り豊かな芸術を花咲かせてきた文化芸術の里でもあり、南道第一を誇る教育都市、観光都市であります。南部圏の中核都市に発展してきた晋州は今、晋州−大田間高速道路が開通するなど新たなる発展の転機を迎えています。/千年歴史を基盤に、21世紀をリードする知識都市・文化都市・環境都市『新希望・新晋州』建設を旗幟に力強い跳躍の一歩を踏み出しています。南江の流れる美しい晋州へお出でになり晋州の情緒にたっぷり浸り、躍動する晋州と共により大きな夢と希望を抱かれますよう願っております。(後略)」 
◇古い「晋州の歴史」
  同ホームページには、簡単な晋州の歴史が次のように紹介されています。「晋州は南部地域の中核都市である。昔から民族文化・精神の発祥地と言われるほど千年古都の歴史を重んじ、忠節と教育・文化・芸術の里として知られている。伽時代には高霊伽の古都であり、三国時代には百済の居烈城であり、統一新羅 時代には居烈州、菁州、康州と改称、高麗太祖23年(940年)に初めて晋州と改称され、成宗2年(983年)に全国12牧の一つである晋州牧となった。朝鮮高宗33年(1896年)に全国を13道に改編するに従って晋州は慶尚南道の道庁所在地となり、観察使が常駐、慶尚南道行政の中心地となった。
1925年4月1日に慶尚南道の道庁を釜山に移転、1949年8月15日には大韓民国政府の樹立と共に地方自治制が施行され、晋州府は晋州市に昇格して市長をおくようになった。そして、1995年1月1日に都農複合形態の市設置などに関する法律により晋州市と晋陽郡を統合し、新たな晋州市に変貌して現在に至る。」
 伽時代とは紀元前1世紀頃から562年に新羅に併合されるまでの期間のことのようですから、大変古い歴史を持っていることがわかります。伽倻は九州にも近く、「倭」と協力して高句麗、新羅と対立していた時期もあり、古代日本とも深いつながりのある国でした。晋州は南に川を望み、山地を背にした自然の要塞地で、その頃から軍事拠点になっていたようです。
◇壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)
 豊臣秀吉が1592〜98年(文禄1〜慶長3)、2度にわたって企てた朝鮮に対する侵略戦争、いわゆる「文禄・慶長の役」を、韓国民は「壬辰・丁酉倭乱」また「壬辰倭乱」と言っています。国内統一を成し遂げた秀吉には大名に分配すべき土地が国内にないことから、中国大陸までも攻め取って矛盾を解決しようとしたらしく、その手始めに朝鮮へ出兵したのでした。この戦争はどのように甘く見ても、道理のない一方的な侵略で、朝鮮側にとってはとんでもない災厄でした。
 戦国時代を戦い、銃を持ち戦争なれしていた日本軍は朝鮮の大半を当初占領しましたが、抗日義兵や李舜臣イスンシンがひきいる水軍の活躍でしだいに苦戦を強いられます。
 晋州においても、「壬辰年(1592年)晋州城第1次戦闘(文禄の役)時、倭軍2万余名に対峙して、晋州牧使金時敏をはじめ3,800余名が6日間の熾烈な戦闘の末に敵を退け」ました。「翌年癸巳年(1593年)の晋州城第2次戦闘時、晋州城を攻撃してきた倭軍12万余名を迎えて倡義使金千鎰、慶尚右道兵馬節度使崔慶会、忠清道兵馬節度使黄進の3将軍をはじめ民・官・軍7万余名が11日間の熾烈な戦闘の末に玉砕し」ました。(以上晋州市HP、「主要観光地」案内より。)
 ずいぶん以前のNHK大河ドラマ『伊達政宗』で、この晋州城攻防戦の場面が出てきたように筆者は記憶しています。結局、この道理のない戦争は秀吉の死(1598年)によって終息します。
◇義妓・論介(ろんかい)
 鄭
lonkaiii市長さんのご挨拶にあった義妓・論介ですが、平凡社発行『朝鮮を知る事典』には次のように紹介されています。
 「李朝時代の妓生キーセンで、壬辰・丁酉倭乱の義妓として知られる。全羅道長水生れ。1593年6月、慶尚道の晋州城を占領した日本軍は、城の南側を流れる南江のほとりの矗石楼ちくせきろうで酒宴を開いた。その席にはべらせられた論介は日本の一武将(朝鮮では毛谷村六助とされる)を岩の上にさそいだし、抱きかかえて共に南江に身を投じた。以来、この岩を義岩とし、矗石楼の奥に論介祠堂を建て、毎年6月には祭事を行っている。」上の写真は、晋州市ホームページに掲載されている「論介義岩」です。
 当時の日本軍は、兵だけでなく一般住民も皆殺しにし、その証拠として鼻や耳をそいで塩漬けにして秀吉に送りました。それを弔った耳塚が京都に現在もあります。同胞が皆殺しにあう中で勝ち誇って酒に酔う敵将を、身を犠牲に殺した論介を朝鮮民衆が称えたのは当然だったでしょう。(同時に日本男性は、昔から鼻の下が長かったということでしょうか。)苛めた方はその事実を直ぐ忘れてしまいますが、苛められた方はいつまでも憶えているものです。姉妹都市の歴史に、こうした知るべき日韓の歴史が秘められていることも認識しておく必要があると思います。

 《中庭だより》 
☆岡部清太郎の除籍が紋別にあるものと信じていたのですが、先日、紋別市より「該当なし」との回答がありました。本当にどうなっているのでしょうか。また謎です。
☆2年間の任期満了に伴い、市史編さん委員が8月23日付で新たに委嘱されました。再任は8名で、山川尚子さん、松岡優美さんが新任されました。よろしくお願いいたします。
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