ヌプンケシ61号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.61
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平成15年12月1日発行

◎「岡部清太郎」調査報告 siori
 秩父事件指導者の一人で野付牛で生涯を終えた井上伝蔵と懇意で、釧路新聞に『秩父颪』を書いたとされる新聞記者、岡部清太郎については第53・54号で調査したことを報告しておきましたが、今回はその続報をお知らせします。でも、その前に「おさらい」をしておきましょう。
seitaro◇『摂政宮殿下行啓記念 北見之人』でわかったこと。
 第53号では道立図書館の蔵書『摂政宮殿下行啓記念 北見之人』(大正11年発行)から、次のとおり岡部清太郎の経歴が出てきたことを紹介しました。「明治十年七月二十四日(戸籍では27日—引用者)山形県西田川郡鶴岡町大字八日町に生る、父を幸之助と称し君は長男なり中等教育を郷里にて終り明治二十七年渡道一度帰国し明治四十三年再ひ渡道し来り明治四十三年釧路新聞記者となり同四十四年野付牛支局主任として赴任し来り新聞の他実業に従事す」
  これで岡部の生年が明らかになりました。また岡部の郷里が山形県鶴岡町(現在の鶴岡市)で、中等教育を終えてから一度17歳の時に北海道にきていること。そして33歳になって再度北海道に渡り、釧路新聞の記者となり、明治44年に野付牛に赴任してきたこと。新聞以外に「実業」にも従事していたことがわかりました。
 しかし、17歳の時にはどこに来たのかは不明です。鶴岡に帰って何をしていたかもわかりません。ただ、33歳になって釧路新聞に採用になり、1年後には野付牛支局を任されたことを見れば、前歴として鶴岡でも同様の仕事に従事していたと思われます。「実業」というのは後で聞いたご親族のお話からすれば、カラフトでの木材取引ということかもしれません。
◇岡部テルさんは旧姓・岡田コマツさん
 上記の資料が発見されたことを8月5日『経済の伝書鳩』が報じたところ、岡部の長女で、甲斐富士夫氏に嫁いだ美寿子さんの長男、つまりお孫さんの甲斐公一郎氏からご連絡を頂き、お話をお聞きして、これまで全く不明であった事実が次々に明らかになりました。
 その甲斐氏から、岡部の妻、岡部テルさん(戸籍名はコマツ)の旧姓が岡田で、北光あたりに住んでいて、その後、一家はブラジルに移民したことをお聞きし、それを手がかりに除籍調査をしたところ、昭和7年の町役場全焼のため昭和8年に再製された岡田家の戸籍がやっと発見できました。これによると戸主は明治3年(1870)9月5日生れの岡田傳次氏で、大正5年4月10日、「香川県綾歌郡羽床上村大字羽床上○○ゑ十七番地」(○は不明文字)より、「常呂郡野付牛町字ニコロ原野北四線九五番地」に転籍してきており、「昭和3年2月12日午後7時伯国(ブラジル)サンバウロ州モジアナ線ボアソルテ駅サプカイ耕地ニ於テ死亡」とありましたが、再製のためか、いつ移民したかは不明でした。そこで前市史編集委員長鈴木三郎氏が抜粋コピーしていた昭和43年2月13日現在の「在伯北海道協会人史」で岡田姓を検索したところ、岡田勇の名があり「1919年生、妻コウ、家族4名、仏教、常呂郡北見市仁頃原野北4線、1932年ラプラタ丸、商業、サンパウロ州サンミゲール・パウリスタ市、C.P.40.」とありました。岡田勇氏は大正8年(1919)2月6日生まれで、傳次氏の三男でした。これを見ると昭和2年(1932)にブラジルに岡田一家は渡ったことになりますから、傳次氏は移民して間もなく62歳で死んでしまったようです。
◇岡部清太郎の本籍地が分かった
 テルさんは、女七人男三人兄弟の一番上の長女で、明治23年(1890)11月28日生れで、ご親族のお話では高松女学校卒だそうで、実家のあった羽床上村は現在の綾上町羽床上(はゆかかみ)になり、地図で見ると高松市に近いところです。後に生田流のお琴を教えたり、華道池坊の支部長を務めたことを考えると、習い事もできた裕福な家庭であったと推測されます。その岡田家の除籍によると大正3年(1914)5月9日、岡部清太郎との婚姻届がだされています。岡部は明治10年(1877)7月27日生まれでしたから37歳で、テルさんは23歳で結婚したことになります。
 婚姻時に記載された岡部の本籍地は「山形県西田川郡鶴岡町大海町戊九番地 戸主岡部幸之助」とありました。早速鶴岡市に照会したところ除籍が見つかりました。長男であった岡部は北海道で一旗あげたら故郷に帰ろうと思っていたのか、渡道後も本籍を移動せずに鶴岡に置いたままだったのです。これでは、北見や紋別を幾ら探索しても除籍は出てこなかったわけです。
 結婚後、長女=美寿子さん、長男=臣孝氏、次男=芳正氏、三男=三郎氏に恵まれました。井上伝蔵の数奇な生涯を顕彰するため大正7年に釧路新聞に「秩父颪」を連載し、翌年郷里山形県を視察し、大正11年(1922)には北見の名士として『北見之人』に載り、政友会の国会議員も夢ではなかったこの頃が岡部清太郎の人生における絶頂期だったかもしれません。
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◇その後の岡部清太郎。
 ところが、その後は一変して、大正12年に関東大震災で東京にあった相当な資産が焼失し、大正15年11月24日、6歳になった次男の芳正氏が破傷風で死んでしまいました。
 その上、大正末から昭和初期に釧路新聞から独立して新聞社を創業したようですから、なお経済的にも大変だったことでしょう。『北海道新聞五十年史』によれば「北見地方も大正後期から昭和にかけて多くの新聞が出現して競い合い、新聞戦国時代の観を呈するようになった。しかし、乱立で各紙が経営難に陥っていたところに、道東地方に勢力を拡大していた旭川新聞が参入してきた。/網走のケースと同様に、旭川新聞は北見新聞のほか『北見毎日新聞』『野付牛新聞』『新北見』の各紙を次々に傘下に収め昭和十四年九月、これらを『北見新聞』に統合することに成功した。」とありますから、岡部の「北日本朝日新聞」も経営難で倒産したと考えられます。
 当時は、旭川新聞、小樽新聞、北海タイムスが道内のシエアを巡ってしのぎを削っていました。『紋別市史』で「道内紙の紋別での動きをみると、大正期すでに北海タイムス、小樽新聞、旭川新聞など道内有力紙の通信員が駐在しており、岡部清太郎、松田青志らが当時の新聞記者として知られている。」とありますから、岡部は経歴を買われて政友会系であった『北海タイムス』の記者になり、昭和8年(1933)以降に長男=臣孝氏を助手として紋別に移り住んだと筆者は推測しています。昭和8年時点で、岡部は56歳になっています。
 「戦後創刊の『新北海』も通信所を開設し、一時岡部清太郎が通信を担当した」(『紋別市史』)とありますから、70歳前後になっても第一線で活躍され、臣孝氏の娘さん=菊池公子さんの記憶でも家にはいつも彼を慕って人が集まっていたそうで、晩年、病床についてからも手紙や電話で紋別市長へ意見をしていたとのことですから、政治への関心は昭和29年(1954)10月10日、77歳で亡くなるまで持ち続けられていたようです。テルさんは昭和36年10月26日、72歳で逝去され、お二人のお墓は現在旭川市にお住まいの三男=三郎氏が守っていらっしゃるそうです。
 以上のとおり、岡部清太郎の野付牛へ来てからの人生の概略がわかりました。あとは鶴岡での青少年期の記録が出てくれば、より鮮明な岡部清太郎の実像に近づくことができるのですが…。

 《中庭だより》 
☆前市史編さん室の解散に伴い、昭和61年(1986)から市立図書館に移動したまま放置されていた旧市史の年表作成用カードケースを、11月18日、当室へ返還してもらいました。その収納物を点検したところ年表カードや地図類の他に、「大正の広重」と言われた吉田初三郎作の「北見市鳥瞰図」が出てきて、びっくりしました。返還されなければ最後はゴミとして処理されたことでしょう。貴方の身の回りにも、思わぬ「お宝」が眠っているかも?
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