ヌプンケシ69号

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市史編さんニュース NO.69
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平成16年4月1日発行

◎日露戦争100年 (3)     yama2
◇第三軍の編成
 旅順攻略の第三軍は、軍司令官乃木希典大将、軍参謀長伊地知幸介少将で、その戦闘序列は第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)、後備歩兵第一旅団(東京)、後備歩兵第四旅団(大阪)、野戦砲兵第二旅団(東京)、後備工兵隊(東京・名古屋・小倉から各一中隊)、攻城砲兵司令部および攻城特殊部隊(各地要塞で臨時編成された特設の攻城砲兵三個連隊と独立一大隊)、野戦電信隊、軍兵站部という編成でした。攻囲戦途中に二八センチ榴弾砲などの攻城砲兵部隊が増強され、末期には北海道旭川の第七師団が加わりました。
 第一師団と第十一師団は、金州・南山を攻略した第二軍に属していたのを、海軍から要望のあった旅順攻略のために、現地で第三軍に急きょ編成がえさせたもので、乃木希典は明治37年(1904) 6月6日遼東半島の柳樹屯に上陸しました。第九師団は輸送の関係で、7月19日から26日にかけて順次戦地入りしました。
◇当初、陸軍は旅順攻略を考えていなかった!
 大江志乃夫著『兵士たちの日露戦争』によれば、「もともと北方のロシア軍主力と切りはなされて孤立した旅順要塞は、陸軍からみれば、適当な兵力で包囲して閉じこめておけば作戦の邪魔にならず、無理をして攻めおとす必要はなかった。旅順は竹矢来ででもかこんでおけば良いと、参謀本部次長の児玉源太郎中将が発言した程度のものであった。しかし、海軍にとっては、旅順の軍港は重要な意味を持っていた。とくに旅順を基地とするロシア太平洋艦隊を全滅させないうちに、ロシアがヨーロッパから回航計画中のバルチック艦隊が旅順に到着して合流すると、極東における日露の海軍力の優劣はいっきょに逆転する。バルチック艦隊が回航してくるまえに旅順を攻略し、旅順のロシア艦隊を全滅させると共に、遠来の艦隊が旅順軍港を利用できなくすることが、満州の戦場への海上兵站線の安全を確保するために絶対に必要であった。」

togo2 海軍による旅順攻撃は膠着状態になって、ロシアの艦隊は旅順港から出てこず、4月30日にはロシア海軍総裁が第二太平洋艦隊の編成と東洋派遣を発表し、5月2日には旅順で機雷にふれ爆沈した船と運命を共にしたマカロフ中将の後任として、ロジェストヴェンスキーが太平洋艦隊司令長官に任命されるなどの動きが伝えられ、またウラジオストックを拠点としたロシア軍艦が日本の輸送船を撃沈するなどもあり、東郷平八郎連合艦隊司令長官も相当苦慮していたようです。
 ロシア皇帝の勅命により8月10日にやっと旅順艦隊がウラジオストックヘ回航すべく、旅順港を出港したのを逃さず、日本の連合艦隊が追撃、黄海海戦となりました。2度にわたる海戦の結果、旅順艦隊は四分五裂して、翌11日、戦艦5隻、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻が旅順港に逃げかえりましたが、それらは沈没しなかったものの、軍艦としては機能しないほど破壊されていました。しかもバルチック艦隊が実際襲来するのは翌年5月末だったのに、海軍は陸軍に旅順攻撃をしきりに督促しました。
◇旅順第1回総攻撃
 要は海軍の要請に従い、旅順港内のロシア艦隊を殲滅すれば、戦略的な目的は達成されたことになるのですが、陸軍第三軍の司令部は旅順要塞の完全制圧を主眼としていました。
 攻める側に多大の犠牲を強いる要塞の攻略は、長期戦が許されれば秀吉が用いた内部崩壊を待つ包囲圧迫による「兵糧攻め」が得策です。短期には相手の最も弱い堡塁に対して、射撃を回避するため稲妻型に交通壕を掘り進め、接近して機を見て一気に火力・兵力を集中して攻撃をしかけるか、坑道を堡塁下まで掘って爆破、その崩壊した一角から内部に突入するのが正攻法なのに、700門の大砲が据えられ、約4万2千名が守備する旅順要塞に、第三軍が第1回総攻撃でとった戦法は、なんと真正面からの露出した歩兵部隊による強襲突撃でした。
 その総攻撃は、明治37年(1904)8月19日に開始され、2日間にわたる380門の砲撃の後、21日午前4
tizu時総突撃の命令が下り、要塞の東北正面、二龍山と東鶏冠山の間に突撃部隊が殺到しました。部隊が鉄条網に阻まれたところを機関銃と火砲になぎ倒され、そこを抜ければ地雷原と、敵陣の壁についたら爆弾や手榴弾の雨、兵士達は次々と倒れました。夜襲をかけようとすれば、サーチライトで照射され、十字砲火を浴びました。分厚いコンクリートで覆われた堡塁は、日本軍が発射する通常の砲弾では破壊できず、間断なく銃弾が打ち出されてきました。繰り返し無益な突撃が繰り返されて、24日午後4時、やっと攻撃中止命令がだされました。この連続六昼夜の攻撃で第三軍全戦闘員5万7百名の3割以上にあたる、1万5千8百名が死傷する大敗を喫しました。対するロシアの死傷者は3千名だったそうです。戦闘中、乃木大将らは前線に出ず、敵弾の届かない柳樹房の軍司令部で、前線からの「報告」だけで指揮を執っていました。これでは戦況に応じた臨機応変な作戦指揮はできず、大敗するのは当然だったと思います。
◇第2回総攻撃
 9月5日の各師団参謀長会議において、第一師団参謀長、星野金吾大佐から「攻撃の目的は要塞の奪取ではなく、港内のロシア艦隊の壊滅にある。」と二〇三高地攻撃の提案がなされました。大本営も海軍も以前からこの高地攻略を求めていました。標高が203メートルあることから名づけられた二〇三高地は、旅順港を見下ろす位置にあり、砲撃や着弾観測に最適の地点でした。それでも第三軍司令部は主要塞攻略を主作戦とし、海軍が攻城用に本土要塞から運んできた二八センチ榴弾砲も旅順要塞東北正面に配置して、二〇三高地攻略はついでの作戦とされました。
 第2回総攻撃は正攻法に塹壕を掘るなど事前準備を進め、10月26日に開始されましたが、ロシア軍の猛反撃にあい、死傷者3千8百余名を出して、10月31日攻撃中止となりました。結果的に、この二〇三高地への中途半端な攻撃が返って、ロシア軍にこの高地の戦略的重要性を認識させ、要塞化が急速に進行し、後の攻撃を更に困難にし、犠牲者を増やしました。
 この重なる攻撃失敗に、乃木の更迭を求める声が大本営でもあがりましたが、明治天皇が「かえれば乃木は死ぬ」との鶴の一声で、責任は不問となり、続投することになりました。
 その頃の旅順での軍医の記録を読むと、現実を無視した作戦と戦死者続出に厭戦気分が隊内に充満、戦場に行きたくないために鉄砲等で自傷する兵士がたくさん出てきました。また、前線で兵隊が逃げだすのを防ぐために、隊尾で反抗者を刺突する督戦隊も組織されたようです。
 こうした混乱の中に、旭川第七師団はまさしく「新しい血」として投入されたのです。(続く)

 《中庭だより》 
☆前川編集委員がまとめた史稿第8号『北見市内小中学校沿革史』は大変好評で、多数の市民の方が「欲しい」と当事務室にこられました。ただ、校正ミスが多数あり、関係者の皆様に大変ご迷惑をおかけしましたことを、ここにお詫びします。すみませんでした。反省!
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