ヌプンケシ70号

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市史編さんニュース NO.70
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平成16年4月15日発行

◎日露戦争100年 (4)       poppo
◇第七師団の出征
 昭和46年に発行された示村貞夫著『旭川第七師団』によれば、明治37年(1904)「十月十九日出発、大阪経由満州に向かうことが指示された」が、「輸送準備がととのって、師団が出発したのは十月二十六日であり、翌二十七日、大迫師団長はじめ司令部は、午前九時三十分旭川を出発し
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▲日露戦争出征、先頭馬上は大迫第七師団長

た。/師団から駅前に至る沿道では、市内はもとより、全道から集まった幾万の道民が、日章旗を打ちふり、声もかれんばかりの万才と軍歌の合唱を続けた。」とあります。大迫尚敏師団長は11月10日に大阪に到着し、翌11日、第七師団は第三軍に編入されました。師団は11月13日から以後3日間、大阪から出帆。「十八日から二十一日にかけて、輸送船は大連に入港し、上陸を開始した。師団長らは二十日午前十時安着している。/十一月二十一日、司令部は双台溝に向い前進、師団長は斎藤旅団長および幕僚を伴い、柳樹房の第三軍司令部に出頭、戦塵にやつれた乃木軍司令官に到着の申告を行った。」「第七師団の戦闘部隊は、十一月十九日から大連に上陸し、二十四日までに逐次双台溝以東、前蘭鎮堡、大辛塞子の線以西、金州〜旅順道沿道の地域に宿営。/残余のものおよび兵站部隊は二十八日から十二月二日にかけて大連に上陸した。」
◇兵は消耗品
 昨年6月、留辺蘂の農家の方から寄贈頂いた『北海タイムス』に、昭和10年(1935)2月26日から3月17日まで「日露大戦丗年輝く我七師団」という特集が20回連載されていました。この連載当時は日露戦争が終わってまだ30年で、存命していた日露戦争経験者たちの体験談が掲載されています。今回はそこから関係箇所を引用してみましょう。
 予備陸軍歩兵二等卒で「当時白襷隊の先陣をきって敵塁に斬込んだ決死偵察隊の八十名はほとんど全滅して生存者僅に六名その一人〜札幌市北一条西一丁目に新聞店を経営する森佐久間(五五)氏」の談話の中に、旅順行きがどのようなことを意味したかが窺える次の記述がありました。
 大連で「軍の雑役に使われていた人夫が上陸の際『どの方面へ行くんですか』と聞いていた 誰かの『旅順だよ』という答えに対して彼は眉をひそめて『ああお気の毒ですな』と云った
 其夜旅順に向う道すがら奉天方面に転戦する第八師団の砲兵とすれ違った 『やあまた消耗品が来たぞ』と彼等は砲車の上から叫んでいた 何の意味か判らなかったがその夜の明け方に至ってそれら一切の謎が解けた」。「旅順の山という山、谷と云う谷を真黒く塗りつぶしていたのは敵味方の折り重なった死体であった」。この光景は初めて戦場に来た兵士には衝撃だったでしょう。
 連載5回目にも旭川の様子として「これら尊い犠牲者を出す毎にそれに伴う補充兵の出発で朝出る昼出る夜出るというわけであったが当時兵は消耗品とまでいわれたほどだけに送る人送られる人これが此の世の暇乞いだ」とあります。戦争で歩兵は「消耗品」だったのです。
◇第三回総攻撃と第七師団
 バルチック艦隊が10月15日、極東にむかってリバウ港を出発したことは、翌日には日本に伝わっていました。11月11日、東郷司令長官は柳樹房の第三軍司令部に乃木大将を訪ね、二〇三高地攻略を督促しました。11月20日、大山巌満州軍総司令官から督戦の訓令があり、22日には明治天皇からも同様の勅語が下され、乃木は精神的にも大変な窮地に立たされたことでしょう。

sirodasuki 第3回総攻撃は、11月26日午前10時から攻城砲による突撃支援射撃で火蓋が切られました。今回も松樹山、二龍山、東鶏冠山の各堡塁を正面から攻撃する突撃戦法で、当然ロシア軍によってことごとく撃退され、兵力の消耗は激しく、特に松樹山を攻めていた第九師団の損害が甚大だったので、第七師団第二十七連隊がそこに配属され、第一線の攻撃に参加しました。
 また中村覚少将が指揮する「特別支隊」いわゆる白襷(しろだすき)隊が編成され、その構成人員3,105名中の約半数、1,565名が第七師団歩兵第二十五連隊でした。全員目印に十文字に白襷をかけて出陣したので白襷隊と呼ばれたわけですが、『北海タイムス』で云う「万策尽きた結果」の夜襲に、目立つ白襷というのは私には理解できません。26日午後7時を期して、松樹山第四砲台付近に突進、今後の軍攻撃の突破口を作れとの命令が白襷隊にあり、攻撃が開始されます。
 前掲の森氏の証言による白襷隊の決死偵察隊が顛末は、次のとおりです。「戦場へ到着して五日目忘れもしない十一月二十五日の晩 私達の隊は背嚢其他一切の装具を返納した。身についているのは銃と剣と水筒だけ、その軽装のまま暗い夜道を谷伝いに進軍して明け方までに水師營近く凹地に集結を終わった。二十六日の日中はここで暮らしたが その時はじめて中村特別支隊いわゆる白襷隊に編入されていたことを知った」。「しかも私は一歩進んで二ケ大隊から募集した決死偵察隊八十名の一人に加わった。隊長は連隊でも豪胆で知られた石田大尉」。
 「日がとっぷり暮れると松樹山から、盤龍山から、赤坂山から探照燈が一斉に麓に向って照射された。それでも足りないのか照明弾がすさまじい光芒を曳きつつ斜面の闇を這った。その頃偵察隊は本隊の先陣をきって敵の探照燈を避けつつ松樹山の麓にとり縋っていた。石田大尉を先頭に八十名は固く密集したまま円匙と鋏と手榴弾の三班に分かれて三十歩這っては伏せ、伏せては三十歩這い歩一歩目指す堡塁に近づいた。山の中腹辺りに一面に鉄条網があり鋏班の私は切断任務についたがすでに破壊されていて天は我等に幸した。通過支障なしとの報告に石田大尉は勇躍『自分の切り込んだところへ突込め』と決意を伝えて頂上に向って歩調を速めたのである。」
 手に被弾して包帯をしたため「一町程遅れて隊に追い縋らんとした私の目の前で地雷火が轟然と爆発した。山が崩れるようなショックと同時に真黒い物体が無数に暗空に舞い上がったのを見た。ハッと思って駆けつけた時には万事休す、石田大尉以下隊員はどこへ行ったのか姿はなく目撃したのは一面に散乱した白襷の死体である。負傷兵である。(後略)」
 罠に落ちたのか、偵察隊が地雷原でほぼ全滅した時に攻撃はすでに失敗したと思うのですが、26日午後8時50分、白襷隊は松樹山堡塁に向って突撃、ロシア軍の反撃で一時間後には壊滅していました。それでも一部は翌27日午前2時30分まで攻撃を続行していたそうです。(続く)

 《中庭だより》 
☆津幡嘱託調査員がご都合で退職され、かわりに4月1日付で山下郁夫さんが嘱託調査員になりましたので、お知らせします。津幡さんには戦没者記録等、貴重な調査をして頂きました。多芸で、海外旅行が大好きな津幡さん、これからもますますのご活躍を祈念しております。
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