ヌプンケシ74号

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市史編さんニュース NO.74
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平成16年6月15日発行

◎日露戦争100年 (8)      tenan
◇遼陽会戦へ
 旅団長であった小泉正保が、明治37年(1904)7月9日に、敵弾で負傷したことは前号のとおりです。その彼が属する第二軍が北上するため、8月1日には傷も完治しないまま戦線に復帰し、激戦であった遼陽会戦(8月26日〜9月5日)に前線で遭遇することになったのです。
 ロシア軍総司令官クロパトキンは、東清鉄道の拠点都市であった遼陽を決戦場と決め、
kur22万5千の兵力を結集して、周辺に強固な陣地を構築し、日本軍の到来を手ぐすねひいて待っていました。(左の写真は、クロパトキンです。)
 これに対して、13万4千の日本軍は、第二軍(奥保鞏大将)と第四軍(野津道貫大将)が遼陽へぬける街道と鉄道線路沿いに北上し、第一軍(黒木為楨大将)は遼陽の横を流れる太子河を渡り、側面からロシア軍を攻撃し、包囲殲滅する作戦をたてました。
 「最初に行動を起こしたのは第1軍だった。八月二十四日、進撃を開始するや、たちまち紅沙嶺−孫家塞−高峰寺一帯の敵塁を撃破。二十九日には、敵の第二防御陣地に迫る石咀子−周家溝子−桂子山の線まで進出した。/なかでも勇名をとどろかせたのは第2師団だった。(後略)/第2師団の側面には馬蹄山、弓張嶺、寒坡嶺の敵塁が連なっていた。そこには二万人のロシア軍が堅陣を張っている。/この時期、日本軍は砲弾不足に悩んでいた。ここで大量に砲弾を消費しては、ロシア軍主力に対抗できなくなるおそれがあった。かくて黒木軍司令官は、一個師団二万人による夜襲という、世界戦史にも類例のない大作戦を立てたのである。/八月二十六日午前二時、弓張嶺にひそかに迫った第2師団は、小銃を乱射後、凄絶な白兵戦に突入した。」夜が明けるに連れて、当初混乱していたロシア軍も態勢を立て直して反撃しました。そのため日本軍が弓張嶺を完全占領したのは、11時だそうです。
 「一方、第2軍と第4軍は八月二十五日夜半から進撃をはじめた。当初の撃破目標は、敵の主陣地と目される鞍山站だ。二十七日未明、日本軍は攻撃を開始したが、抵抗はほとんどない。難なく鞍山站を占領してさらに前進し、二十九日には第2軍は沙河に、第4軍は大山−桜桃園の線まで進出した。/ロシア軍は遼陽の西から南にかけて半円形に堅固な防御線を構築している。なかでも首山堡と北大山には大兵を配し、万全の迎撃体制を整えていた。/三十日未明、い良いよ日本軍の総攻撃がはじまった。第2軍は首山堡に攻めかかり、第4軍は北大山に襲いかかる。」(以上、学研・歴史群像シリーズ24『日露戦争』より引用)
◇狐家堡子の死闘
 小泉正保が率いる二十四旅団(歩兵第二三連隊・第四八連隊で構成)は、その首山堡の西北3キロの地点にある、防衛線の一角であった狐家堡子を攻撃目標にしました。ところが、その狐家堡子にはロシア軍の機関銃8挺が配置されていたのです。配備されたロシアの機関銃中隊は、陣地全面にあった高粱畑を陣前距離650メートルの間を刈り取り、見通しをよくして日本軍の攻撃に備えました。この頃の高粱は高さが2メートルほどにもなって視界をさえぎり、高粱畑に入ると目隠し状態になりました。ですから、小泉が率いる日本兵士たちは地形も分からぬまま高粱畑を前進し、やっと畑から抜け出したとたんに機関銃の餌食にされてしまったのです。

hoz 8月30日、ロシアの機関銃中隊は「正午ごろ、日本軍歩兵(第四五連隊か)が機関銃陣地の右側方に迂回するために鉄道線路を越えようとする運動を開始したので、種々の照尺をもって左右の撒布射撃と短時間の速射をもって刈り払った高粱畑外に停止させ、前進を阻止した。夜間になって日本軍は高粱畑内を前進してきたので、黎明にいたってこれを持続射撃を加えて撃退し、さらに同地内に残って射撃を持続する日本軍に逆襲を加え、三一日日没まで、終始日本軍の攻撃を撃退しつづけた。三一日夕七時、日本軍砲兵の猛砲火があびせられはじめ、機関銃中隊は大損害をうけ、ついに午後九時ごろ、命令によって撤退した。
 公刊『日露戦史』第三巻では、同方面の攻撃を担当していた第六師団の攻撃がはげしい銃砲火のために阻止されて進捗せず、ついに夜襲を計画、未明、西蟻屯を攻撃した歩兵一三連隊は『敵の機関銃火最も激烈にして攻撃容易ならず、よって砲撃の成果を待たんとして前進を中止』、同じく歩兵第二三連隊は『狐家堡子より側背を射撃せられ、尋いで同村方向より敵の逆襲を受け第二大隊能く之を撃退せしも死傷はなはだ多く』、狐家堡子北方を攻撃していた歩兵第四八連隊第三大隊(第一大隊はロシア軍の夜襲を受けて攻撃に参加できず)は『折倒せる高粱間を前進して敵を距る約三百米突に達し隊伍を整えり、此の間敵は沈静して射撃せざりしも大隊再び前進を起こすや射撃を開始し、其の勢猛烈を極めことに狐家堡子北側付近の機関銃の掃射を受け瞬時にして死傷続出し、大隊長西村少佐以下将校ほとんど斃れ収拾すべからず、すなわち前夜の位置に退却し』た。」この30・31日の戦闘で、第六師団だけでも死者1,024人、負傷者2,077人の犠牲者がでました。
 「当時日本軍の総司令部は首山・北大山高地の前方陣地が本格的な野戦築城であるとは考えていず、遼陽城外への設堡陣地への接近を妨害するための簡易な前進陣地程度のものであると推測し、これを速攻をもって占領していっきょに追撃して遼陽を包囲することを企画し、第二軍左翼に第四師団を配置して包囲翼を形成する追撃部隊に引当て、追撃戦にそなえて砲弾を節約するために砲兵第四連隊は首山・北大山戦での砲撃を禁じられていた。このことが、砲兵の掩護なしに、裸の歩兵が掩体の背後にひそむ機関銃群に躍進をくり返し、多大の損害を生ずる結果を生んだのである。/戦力の温存をはかるために、眼前の強敵を叩くための力を惜しみ、そのために回復し難い損害を受けるという愚もまた、すでに日本陸軍用兵の伝統的欠陥として日露戦争段階においてあらわれたものといえよう。」(以上、大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』より引用)
 結局、戦局を打開したのは、側面の第一軍が8月30日、秘密裡に太子川上流を渡河し、ロシア軍の背後を脅かした行動でした。クロパトキンはこれを過大に評価し、日本の第二軍、第四軍と堅固に対峙していたロシア軍主力を、第一軍に向けて移動させる間違いをしたのです。その結果、31日の夜に転進をはじめたロシア軍の隙をついて、第二軍が首山堡の一角を占拠、他の各部隊も突撃して、9月1日には首山、北大山一帯を占領し、4日朝までに遼陽付近の敵陣地を占領しました。ロシア軍は、背後の第一軍に圧倒的な兵力で逆襲するなど善戦していましたが、クロパトキンは奉天での主力決戦を構想して3日午後、全軍に退却を命令し、4日には全線にわたって退却を開始。これを追撃して第一軍が遼陽に雪崩れ込みました。しかし砲弾もなく、兵力の消耗しきった日本軍に余力はなく、追撃を9月5日で停止しました。この会戦での日本軍の死傷者が約2万3千人、ロシア軍の死傷者は約1万6千〜2万人と言われています。遼陽会戦も日本軍が勝利したと言われていますが、実際は長蛇を逸した、危ういものだったのです。(続く)

 《中庭だより》 
☆6月12日、札幌にある北海道クリスチャンセンターで「小池喜孝先生を偲ぶ会」が開催され、筆者も参加してきました。参会者は120名あまりで、20数年ぶりに会う人がいたり、さながら同窓会で、和やかな雰囲気のうちに亡き小池先生のお人柄と業績を偲びました。
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