ヌプンケシ75号

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市史編さんニュース NO.75
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平成16年7月1日発行

◎日露戦争100年 (9)

 前号に書いたとおり、「遼陽会戦」はロシア軍の退却で日本軍がからくも勝利した形になりました。鈴木三郎氏が書かれた『小泉正保小伝』によると、「小泉少将は(明治37年−引用者)九月四日夜明方 二十四旅団の予備隊を率いて遼陽城内に入り、敵の巧妙に仕掛けられた擬銃火に戸惑いながらもついに城内の残敵を一掃して完全占領を果たして以来、総司令官の命令通り遼陽附近に宿営を続けていた。」そうです。日本軍が戦闘を継続するためには、疲労困憊した兵隊達のために休養を取り、その間に不足な兵力と弾薬の補充を早急に図る必要があったのです。
 また9月中旬、満州軍総司令官大山巌から各軍司令官に直接、次の四カ条の注意がありました。
 一. 今後の戦闘は、急激に戦略要点を占領するよりは、むしろ敵の兵力を尽滅するを主眼とせ
   ざるべからず。故に、損害の多きを顧みることなく工事を施せる堅固なる防御陣地を正面より
   力攻するがごときは勉めて之を避け、運動を巧みにし準備射撃の成果を待ちしかる後突撃を
   断行し、以て可成我損傷を少にして成功の大ならんことを期すべし
 二. 濫射を戒め、特に砲台又は肩墻内に在りて射撃中止中の敵砲兵に対して砲撃を継続する
   が如きは、全く無効にして徒らに弾薬を消耗するに過ぎざるものなり。
 三. 各兵站地には、守備隊の人員に応ずる防御工事を施し、敵騎就中敵の騎砲兵の榴散弾に
   対して完全なる掩護を得て、守備兵力の微弱を補ふべし
 四. 各兵站管区内に在る鉄道橋は、当該兵站司令官に於て敵騎、馬賊、露探等に対し十分保
   護を加ふべし
 遼陽会戦の教訓として、敵陣地を多大の犠牲を払って占領しても、敵を退却させては何の効果もないこと。味方の兵士の損傷を少なくすることが大切であることを実感したのでしょう。
◇クロパトキンの攻勢=沙河(さが)会戦
 一方、クロパトキンは奉天を決戦場と想定して、ロシア本国からは続々と増援部隊が到着し、決戦の準備を進めましたが、日本軍は一向に攻撃してくる様子がありませんでした。そこに現地諜報員からの報告が入り、日本軍が兵員や武器弾薬の補充に追われていることがわかりました。そこで日本軍の補充が間に合わないうちに攻勢にでることを考えました。

gurippe それにくわえて、9月下旬のペテルブルグでの御前会議では、ロシア軍連敗でクロパトキンの指揮能力に疑問が続出し、その結果、満州のロシア軍を第一軍と第二軍に分け、クロパトキンを第一軍司令官に、第二軍司令官をグリッペンベルグ大将(左写真)とすることにしました。クロパトキンにすれば、明白な降格人事でしたから、グリッペンベルグが現地に赴任してくる前に決着をつけ、自分の実力を誇示する必要があったのです。
 しかも9月中旬から10月6日まで、児玉源次郎総参謀長は旅順攻略の督戦視察のために、遼陽にあった司令部を留守にしており、その隙を突くように、10月2日、クロパトキンは全軍に反攻宣言を発して、ロシア軍は奉天から南下を開始しました。まずは日本軍主力を奉天街道方面にひきつけ、その間に東部山岳方面を重点に攻撃し、日本軍右翼を撃破して南西に旋回、遼陽付近で包囲撃滅しようという作戦でした。

oro その頃、満州軍総司令部及各軍司令部の意見は二分されていました。一つは敵の攻撃に備えて陣地を鞏固にし、迎撃して一気に雌雄を決するものと、他は敵の攻撃体勢が充分に整わない間に先制攻撃を加えて撃破すべしとする二つの意見が対立していたのです。総司令部は始め前者の意見に立って各陣地を鞏固にするように指令していましたが、10月8日、第一軍方面の本渓湖に強力な敵部隊が攻撃をしかけて来たことから、総司令部はこれまでの作戦を一変して、先制攻撃に出ることとし、10月10日、進撃命令を発しました。その目標を敵部隊の終結の中心である沙河としました。その日本軍の作戦は、自軍の左翼におけるロシア軍の行動が活発でないのを好機として、第一軍の右翼を軸として東北に旋回しつつ敵を東北山地に圧迫する。このため第二・第四軍は左翼を前に前進し、ついにはロシア軍を逆包囲し、殲滅するというものでした。
◇今度はロシア軍が機関銃の餌食に
 10月8日正午すぎ、日本軍の最右翼であった本渓湖を守備していた第一軍所属に所属する梅沢道治少将指揮下のいわゆる梅沢旅団はロシア軍の攻撃にあい、3時間の激闘の末、撃退に成功しましたが、日本軍の右翼突破を狙うロシア軍は9日早朝、大部隊で攻撃を再開。このままでは梅沢旅団は全滅するかもしれず、第一軍司令部は第12師団を救援に向わせました。
 あわせて機関銃を装備した騎兵第2旅団を、奇襲部隊として急行させました。激闘は10日、11日と続きましたが、山地づたいにロシア軍左翼に進出した騎兵旅団が、機関銃でロシア軍を側面から掃射、その結果ロシア軍は大混乱となり、敗走していきました。そして12日になってやっとロシア軍の撃退に成功したのです。
◇沙河で対陣
 中央に位置していた第四軍は10日朝から北進をはじめ、12日には夜襲によって三塊石山を占領。左翼の第二軍も10日に進軍して12日に前浪子街を急襲制圧し、紅宝山の前面に進出しました。13日から14日にかけて、第二軍は不眠不休の猛攻、夜襲をかけました。これをみてクロパトキンは、日本軍は豊富な予備軍を控えさせているのではないかと錯覚し、退却を命令しました。そして、15日にはロシア軍の大半が沙河の右岸に退却しました。
 それでも第四軍全面の万宝山のロシア軍は激しく応戦し、日本軍の占領を許しませんでした。15日の夜に第四軍の山田支隊が、第二軍の協力でいったん万宝山の占領に成功しましたが、16日の夜、退却するところを逆襲にあって全滅に近い損害を出し、大砲14門を捨てて逃げるという大敗北を喫しました。しかし、ロシア軍も追撃する余力はなく、10月17日には砲声もやみました。満州軍総司令部は20日に攻撃停止を命じ、8日に始まった沙河会戦は集結しました。この会戦の死傷者は、日本軍が20,497名、ロシア軍が41,346名でした。これ以後、しばらく日本軍とロシア軍は沙河を挟んで睨み合い、冬営することとなりました。
 小泉少将も第二軍第6師団にあって、旅団を率いて林盛堡占領に力を尽くしました。そして、旅順が陥落後、沙河で第三軍参謀長へ異動を命ぜられたのです。第三軍には前任地・旭川の第7師団の顔見知りもいたでしょうから、彼は得意の絶頂にあったことでしょう。それが第73号に記した墜落事故で泡と消えたのですから、人生は最後までどうなるか、わかりません。(続く)

 《中庭だより》 
☆6月21日、秩父事件研究家・引間春一氏より所有者である佐藤知行氏の許可を得て、井上伝蔵の三男、郁雄が大正10年(1921)に町や井上家の周辺を描いたスケッチのカラーコピーが当室に提供されました。当時を知る上で貴重な資料です。引間氏には全く感謝、感謝です。
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