ヌプンケシ77号

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市史編さんニュース NO.77
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平成16年8月1日発行

◎日露戦争100年 (11)           kurupu
◇日露戦争の関ヶ原=奉天会戦
 明治38年(1905)2月17日、旅順を陥落させた乃木大将の第三軍も、遼陽西方に北進を完了し、満州軍全軍が集結しました。2月20日、大山巌総司令官は烟台にあった総司令部に各軍の司令官等を招集して、これから展開される奉天会戦に関する次の訓示をし、攻撃命令を下しました。
 「近く目前に横たわる会戦においては、我はほとんどの日本帝国軍の全力を挙げ、敵は満州に用い得べき最大の兵力と思わるる軍隊をひっさげ、もって勝敗を賭せんとす。これ重要中の重要なる会戦にして、この会戦において勝を制したるものは、戦後の主人となるべく、実に日露戦争の関ヶ原というも不可なからん。故に吾人はこの会戦の結果をして全戦役の決勝となすごとく努めざるべからず……」
 沙河を挟んで反攻を企画していたロシア軍に対して、日本軍は右翼から鴨緑江軍・第一軍・第四軍・第二軍が布陣、その背後に第三軍を遊撃軍として配置しました。その作戦計画は、鴨緑江軍が左翼でロシア軍を牽制して兵力を集中させ、その間に乃木の第三軍が迂回してロシア軍右翼側背を攻撃し退路を遮断、左右両翼にロシア軍を分散させ、その薄くなった中央部を奥大将の第二軍と野津大将の第四軍が攻撃突破し、包囲殲滅するというものでした。
◇鴨緑江軍と第三軍
  2月22日、川村景明大将率いる鴨緑江軍は雪中前進を開始、24日には早くも清河城を占領、26日夕刻には馬群鄲へと進撃しました。この陽動作戦に驚いたクロパトキンは、鴨緑江軍を乃木の第三軍と誤認して、大兵力を西から東に移動させました。
 これを見て、満州軍総司令部は2月27日、乃木の第三軍に出撃前進を命令しました。この迂回運動を支援、隠匿するために、奉天正面に陣取っていた第一、第二、第四軍は一斉砲撃を開始し、3月1日には全軍総攻撃をかけましたが、総司令部が意図したように作戦は展開しませんでした。当初善戦していた鴨緑江軍も、ロシア軍の大軍に阻まれ、3月2日以降は守勢に立たされ、現状を維持するのがやっとという状態でした。
 「渾河右岸で繞回運動を起こした乃木第三軍は第一縦隊(右翼)が第九師団、第二縦隊(中央)が第七師団、第三縦隊(左翼)が第一師団となり、北進した。従って、第三軍全軍あげての大兵力による運動である事実を秘匿するために、右翼第一縦隊は少数兵力の一支隊の前進であるかのように、ロシア軍にその前進を暴露しつつ前進しなければならなかった。三月二日、第九師団の歩兵三六連隊はロシアの大軍と衝突し、苦戦を強いられたが、そのため第二、第三縦隊が隠密のうちに第九師団のはるか北方に進出し、三月三日、奉天の西方から西北方約二〇キロの弧線上に突如として姿をあらわすことに成功した。第九師団と交戦していたロシア軍は北方からの包囲を恐れて退却した。」

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                               (大江志乃夫著『歴史としての日露戦争』より)
 その3月2日、第三軍と総司令部をつなぐ電話は一日不通だったそうで、総司令部が苦戦を無視して遅滞を強く非難し、猛進を督促するので、乃木大将が怒って線を引きちぎったといううわさもあります。総司令部参謀が叱責したのは、北進成功が勝利の鍵と考えていたのと、旅順での攻略遅延もあって第三軍には強い不信感を持っていたからでしょう。
 ロシア軍は第三軍を日本軍主力と勘違いして、大石橋付近にいた第一師団に攻撃重点を置き、3月5日から大攻勢をかけてきました。3月6日には後備第十五旅団が大打撃を受けて敗走し、北進することがもはや不可能と思われました。3月7日、総司令部はその報告を容認せず、児玉総参謀長が直接猛進続行を命じてきました。この命令を部隊に伝えた後、怒った乃木大将は誰にも告げず、一人で前線に出かけてしまい、幕僚が慌てて迎えにいく一幕もあったそうです。
◇奉天からのロシア軍退却
 多大な犠牲を無視して進軍してくる、無茶苦茶な第三軍の猛進に、まだ相当数の予備兵力が存在すると錯誤し、鉄路を破壊され、退路が遮断される危険性を感じたクロパトキンは、各戦線で優勢であったロシア軍に突然撤退を命じました。
 「ロシア軍の撤退行動を確認した総司令部は追撃命令を出し、東部戦線では鴨緑江軍が八日早朝から追撃を開始し、次いで奉天南部戦域から黒木第一軍、野津第四軍もロシア軍を追って奉天に迫りつつあった。ただ奥第二軍の正面にあったロシア軍は、防御陣地を固守して頑強な抵抗をみせて退かず、第五師団と下沙子付近で七時間を超す激闘を展開した。/この戦闘で第五師団は甚大な被害をこうむり、目的を達成することができなかった。また第三、第八師団が相対したロシア軍も抵抗が激しく、背走に追い込むことができなかった。この奥第二軍が相対したロシア軍は、クロパトキンが撤退行動を完了させるために東部と中央戦線から増派した援軍であった。同じ西部戦線の乃木第三軍もまたこの援軍の激しい抵抗にあって苦戦を強いられていた。」
 猛烈な砂嵐となった9日「黒木第一軍、野津第四軍、川村鴨緑江軍は順調に渾河を渡河して西方に進出し、奉天に迫る戦線を形成したが、奥第二軍と乃木第三軍は悲惨な状況下に置かれていた。ことに乃木第三軍の第一師団は、ロシア軍の退路を分断する目的をもって文官屯北方から郭三屯にかけて進出を試みたが、ロシア軍の大逆襲をうけてパニック状態に陥り、田義屯に退却を余儀なくされた。」(平塚柾緒著『図説・日露戦争』より)
 歴史家・大江志乃夫氏は、この敗走は「乃木大将が捕虜になった」と風聞が飛ぶほどの、二個旅団の敗走という大規模な敗戦であり、この時のロシア軍の逆襲が主力退却を援護するための戦術的な攻撃に限定されていたから、第三軍は総崩れにならずに済んだと書かれています。
 3月10日未明、第七師団は奉天城北郊の昭陵に夜襲をかけましたが、見通しのきかない鬱蒼たる森林内で部隊は分散し、ロシア軍と混戦、攻撃隊長・村上正路大佐が孤立、負傷、捕虜になりました。村上大佐は二〇三高地占領の最高殊勲者でした。野付牛屯田兵の戦死者を見ると、奉天で死亡日3月10日の者が4名います。不運にもこの夜襲に参加していたのかも知れません。
 3月10日、ロシア軍は鉄路と道路で奉天から続々と総退却していきました。中沢広著『開拓夜話』に日露戦争に参加した父親の聞き書きとして「我が軍は見事大勝利を博したが、敵の大部隊は列車によって逃亡、全滅の企画は崩れ去ったのであった。私は昌図の小高い山で敵の遁走するのを切歯して見ていたが、何の命令にも接しなかった。」と書いてありますが、日本軍にもロシア軍の退却を阻止するだけの兵力も砲弾も残っていなかったのです。同日午後3時ごろ、奥第二軍の第四師団の歩兵約三中隊は奉天城内に入り、城門に旗を立てました。その後、日本軍は16日に鉄嶺を占領し、17日には完全に行動を停止しました。総括は次号でしましょう。(続く)

 《中庭だより》 
☆7月6日に、市役所OBの今井満様より、昭和36年から平成14年までの、新聞切抜きスクラップ・ブック90冊を頂きました。また同日、下斗米ミチ様からも戦前の婦人雑誌『新女苑』32冊のご提供がありました。資料が増えるのはうれしいことです。ありがとうございました。
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