ヌプンケシ87号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.87
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平成17年1月1日発行

明けましておめでとうございます!!
本年も旧年に倍しまして、よろしくご指導、ご支援ください。
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◎『釧路新聞』を閲覧して(4)
◇明治44年の大ニュースは鉄道開通   poppo
 明治44年(1911)の大ニュースは、9月25日の陸別・野付牛間の鉄道正式開通でした。
 9月27日の釧路新聞は、25日の野付牛でのお祭り騒ぎを次のように報じています。
「▲野付牛駅 式場は停車場の前に幕を張り緑門を設け国旗を掲げ、供応にて麦酒および日本酒各一本あてに折詰一個を卓上に置き、中央に卓を設けて祝詞演説に便せり。来賓の主なるものは野村管理局長、稲垣建設部長を首とし鉄道院官吏数十名、山浦網走支庁長また民間にては白石代議士、松崎網走実業新聞社長および網走実業家等なり。淕別駅まで出迎えせられし前田道会議員 長谷川野付牛村長の案内にて午後一時着車と同時に来賓一同式場に臨むや、長谷川村長まず開会の挨拶をなし野村局長の答辞あり、ついで白石代議士の祝詞 山浦支庁長の祝文朗読前田道会議員の演説に 宴に移るや、娘に化粧せし大男が小旗を振りて指揮して一様に黒紋付の酌婦数十名現われ酒肴を周旋せしは まず主客を哄笑せしめたり/▲余興には数種の模擬店ありて あらかじめ来賓に交附せし食券引替にて自由に飲食せしめ 又ぶん廻しにて景況を出せしなどは面白かりし。そのほか池田駅より乗込し芸妓連の手踊りは群集の最も喜び楽しみしものならん/▲慰労会当夜鉄道院の一行は梅原支店に慰労会を開催してすこぶる盛会なり/▲市中の賑い何せ北見國に初て汽車が開通したことなれば野付牛全村のお祭り騒ぎは言うまでもなく近村より見物人の出かけしもの多く中々の賑いなり当夜常舞台にて演劇もあり」下の写りの悪い写真は、この時の駅前風景です。門に「祝開通」という文字が読めます。

oiwai◇鉄道開通の大功労者は澤本楠弥
 25日付の釧路新聞は開通記念広告で埋まり、当時、釧路新聞の社長で国会議員でもあった白石義郎(1861〜1915)が「白石東泉」の筆名で書いた次の祝文が「●お芽出度」(おめでたい)と題し、掲載されています。
 「今日は網走線の一部なる淕別野付牛間の開通式で則ち鉄道の北見國に於ける初めての営業開始である。多年鶴首渇望しつつあったわれわれは如何なる言語をもって祝賀の意を表すべきか、どうも適当に我が意を表するに足る言語がない。やはり古来の俗語にてオメデタイと祝するのが穏当だと思う。オメデタイは多くはお目出度と書くが 何も蟹や目抜き鯛の様に眼が飛び出したからとて祝賀の意味にもなるまい。之に反して芽が出るのは草木の生育を意味するので出生ほどオメデタイものは世にあるまい。されば祝賀を意味するにはお目出度よりもお芽出度と書く方がむしろ適当だろうと思う。
 さて北見の沃野の 本道の北端に隠れて前は荒き海に臨み後は高き山に扼せられ世に出づることが出来なかったのが、今日より鉄道開通と共に宝庫のドアを打ち開かれたのである。取りも直さず北見が芽を出したと言うべきではあるまいか。また北見鉄道の方面から見れば わずかに野付牛に芽を出すまでには種を蒔かねば生えない 官辺の権兵衛は別物として 民間で権兵衛の役を勤めた人は故澤本楠弥君で故片岡衆議院議長や池田侯爵などが加勢をした。そして其の蒔きつけた種子に大骨折て肥料をほどこし また霜よけ等の心づくしをした人々は前田駒次君等を筆頭として地方有志の面々であった。僕がはじめて故澤本君に会し鉄道談を試み 君の熱心に感動したのは十余年前であったが、今日野付牛が一町村として日本第一多数の停車場を有するに至ったを知らば、其の生育の偉大に驚喜せられるだろう。言うまでもないが北見國人は現在に満足せず 大いに進んで拓殖の功を奏さねばなるまい。そして鉄道を利用する産物を作り出すのは 取りも直さず芽を出した鉄道に肥料をほどこし成長せしむるのである。近頃また野付牛より軽便線という枝が湧別の方に向って芽を出したが、軽便を本鉄とし、狭軌を広軌に太らすのは北見國人が肥料をほどこすと否とにある。この意味において今日はお芽出度と前途を祝するのである。」(以上本文は読みやすいように直してあります。−引用者)
 白石は鉄道開通の一番の功労者として、澤本楠弥(1855〜1904)を挙げています。澤本は坂本直寛が野付牛を離れてから北光社責任者として粉骨砕身の働きをし、志半ばで結核に倒れました。あまり澤本の功績が北見市民に知られていないのは、彼が高知で死んだためでしょう。
◇広告取り詐欺出没
 釧路新聞が北見地方に本格的に進出するのに合せて、早速その社名を騙った広告取りの詐欺も置戸に出没しました。明治44年(1911)8月24日の紙面に、左下の社告が掲載され、あわせて「●本社記者と偽る悪漢」と題した次の記事も見えます。

syako 「野付牛特置員よりの報告によれば 近来釧路港浦見町五丁目三番地須藤東造と称するもの 網走線置戸付近に出没し広告を募集しおる由なるも 同人は何等本社に関係なきものなるのみならず かつては下富良野近傍において北海旭新聞記者を名乗りて今回同線(様?)広告を募集し もって地方民をあざむき 近くは釧路において浮浪罪として拘留処分を受けたる悪漢なれば 同地方の読者は彼の奸手段に欺かれざるよう注意せられたし なお本社はこの報告を得ると同時に電報をもって逮捕方その筋に出願の手配をなしたれば 遠からず検挙さるるに至らん」
 昔の新聞記者は会社から支給される安い給料だけでは生活できず、副業を持つのは当り前で、足りない分は自分で自社新聞を売り歩いたり、広告を取って足しにしていたそうです。(中には、ゴシップを嗅ぎつけ、それをネタに強請り、タカリをはたらく不心得者もおりました。)
 大事な財源である広告代を詐欺に持っていかれるのは、大変な問題であったのでしょう。この社告は、岡部が野付牛地方の責任者であることを宣言したものと言えます。なお、筆者の見た限り、明治43・44年の釧路新聞紙上で岡部の名が確認できたのは、この社告だけでした。

 《中庭だより》 
☆旧年中は本ニュースご愛読、誠にありがとうございました。本年はい良いよ『北見現代史』の編集作業も大詰めになってまいります。一段と忙しくなりますが、このニュースが一層皆様に楽しく読まれるように努力する所存ですので、よろしくお引き立てください。
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