ヌプンケシ88号

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市史編さんニュース NO.88
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平成17年1月15日発行

◎政治家「尾崎天風」の子ども時代の名は?piyomaru
 戦前の政治家、尾崎天風(1886〜1960)については、ニュース63・64号に報告し、昨年(2004)『広報きたみ』12月号にも清水昭典先生が「開発に尽くした尾崎天風代議士−さくさくたる悪評の中で−」と題して紹介されていますが、鉄道・湧網線の開通、石北峠の開削に功績のあった人物でした。留辺蘂を舞台とした中山正男の小説『馬喰(ばくろう)一代』の敵役・小坂六太郎のモデルとも言われ、話題の多い人物なのですが、生い立ちはよく分かっていません。「天風」は政治家になってからの名で、子どもの頃の名でさえ郷土史『さろまむかしむかし』(1994年発行)では「百太郎」とされ、また昭和10年(1935)発行の『北海道の新聞と新聞人』では「少年時には百平と言って北見の紋別某小料理屋の出前持ちをやったこともあったとのことである。」とありました。筆者も「百太郎」か「百平」か、どちらとも判断できませんでした。
◇出身地では「百平」

 ところが、昨年12月9日、尾崎の出身地、九州佐賀県鹿島市にお住まいの森直(すなお)さんから、筆者が鹿島市役所に調査協力のお礼として送った前掲ニュースを読んだとの電話がありました。お話では、森氏の曽祖父=萬太郎が、尾崎天風の父親=重吉の弟にあたるとのことでした。mori萬太郎は、森家に明治10年(1877)養子で入籍したとのことでした。現在、森さんは系図を作成しているのだそうですが、尾崎家の長男であった重吉の除籍が鹿島市になく、筆者に重吉の子孫がこの地方にいないかとの問い合わせで、重吉には長男、次男、三男=百平、その下に娘がいたようですが、除籍がないため長男・次男・百平の妹の名前は不詳とのことでした。当方としては、天風の身内が網走管内にいるとは全然聞いておらず、これといった資料もないことをお話しました。その際、森さんから地元の親戚の間では天風のことを「百平」と呼んでいるとお聞きしました。
 12月22日、森さんからお手紙と共に尾崎家と森家の資料が送られてきました。これで尾崎家のおよその家族関係が見えてきました。尾崎重吉は、尾崎佐市とイマの長男で、次男が萬太郎、三男が嘉吉の3人兄弟でした。三男が故郷の尾崎家を継いだ形になっていました。
 上の写真コピーは資料に同封されていたもので、説明では昭和33年に天風が帰郷した時、親族と写したものだそうです。なお、中央の人物が天風で、前列右から二人目が森さんです。
◇子どもの頃から独立心旺盛
 森さんからのお手紙で天風について述べられている部分は、次のとおりです。
 「天風さんの父、重吉さんは地元にいられない様な事があり、天風さんと妹を佐市にあずけ、北海道に行ったらしく、地元では、長男、次男の話はなにも耳にしませんでした。天風さんの子ども時代は『橋の下学校』で、わんぱくのかぎりだったそうです。
 天風さんが、父、重吉さんのいる北海道へ行く事になったのは、小学4年生頃になってからだそうです。その時、おじいの佐市さんが『東京まで同行する』と言ったそうですが、『俺だけで良い』と妹をつれ、父の迎えが待つ東京へむかったそうです。私達には考えられません。
 こんな逸話もあります。地元の色々な寄り合いなどでは、上座、下座とあり年配の方より上座に着くのですが、まだ武士階級が残っているころ、百平(天風)さんは武家出身の権十(ごんじゅう)と言う人より上座に座って怒られた事があるらしいのですが、その時『俺が50も上だ』と言って逃げたとの事です。(百は五十〈ごんじゅう〉より50多いという意味)
 また、除籍に有る様に、森繁太郎(私、森直の祖父)と天風さんとは年の差もなく、子どもの頃遊び友達でした。昭和三十三年、天風さんが里帰りした時は、仏前で泣いておられた様です。祖父も村会議員などしていて一番の友達との事です。
 中尾のお寺およびお宮の造作などに寄付などをしてくれた様で今でも書き残されています。
 地元の学の有る人の話では、天風さんが兵隊で伍長に上ったらしく、読み書きが出来なくてはだめなので、兵役を終えて郵便配達しながら家庭教師をまねいて勉強を頑張っていたと聞いております。兵役前の字は、ひらがな、カタカナ、漢字と読める字ではなかったとの事です。」
◇常呂町の除籍でも「百平」
 森さんからお手紙を頂いた後、駄目モトと、最初の移住先とされる常呂町へ調査を依頼し、12月30日に返信が届きました。そこには幸運にも重吉、天風の除籍が同封されていました。
 除籍によれば、父親=重吉は嘉永2年(1849)12月1日の生まれで、明治30年(1897)8月28日「佐賀県藤津郡古枝村二百三十六番地ヨリ」北海道常呂郡常呂村大字常呂村番外地に移住してきたことになっています。死んだの大正7年(1918)11月15日。家族は、妻=カメ(嘉永6年8月12日生れ)、長男=幸一(明治12年3月2日生れ)、次男=又一(明治16年6月7日生れ)、三男=百平(明治19年12月25日生れ)となっています。二女=ツマ(明治22年6月12日生れ)の名前もみえます。彼女が百平と一緒に上京した妹でしょう。これで間違いなく、天風の子ども時代の名が「百平」であったことが明らかになりました。
 なお、郷土史『さろまむかしむかし』で「百太郎」とあったのは、頭の「百」は地元の人が記憶していて、『馬喰一代』の「六太郎」と結びついて伝えられたのでしょう。
 百平が常呂村に来たのは、次男=又一と一緒に「常呂郡常呂村原野東二線十九番地」に分家した「明治三十一年七月六日」以前と思われます。渡道してすぐに兄と一緒とは言え、12歳で親の家から分家するとは、すごい独立心です。そして学校に通わず、すぐに働きはじめ、農業、出前持ち、馬橇の御者、馬喰など色々な職業を転々とし、苦労したのでしょう。
◇法的に「天風」と改名したのは、大正9年(1920)4月
 彼にしてみれば「百平」では「百姓」に似て、世間でハッタリが利かないので、「天風」という名に変えたと思われます。それでは「百平」が「天風」と名乗ったのはいつ頃かと言うことになるのですが、除籍によると「大正九年四月拾五日附許可ニ因リ其名百平ヲ天風ト変更届出同月拾五日受附」とありますから、法的には大正9年です。裁判所の許可を受けて即日改名したのですが、通称名として「天風」が一般に認知されていたから許可されたと考えられます。そうなると相当以前から「天風」と名乗っていたものと推測されます。その観点で資料を見ると20歳前後に上京して漢学を学んだと書いたもの等もあるので、その頃からと筆者は考えています。字も読めない無学では、社会的に通用しないことも成人するに連れて痛感し、字を必死になって学び、そして自分に相応しい「新しい名前」も考え出したのでしょう。
 何はともあれ、年末、九州佐賀県から当ニュースへの思わぬ反響があり、新年、尾崎天風の実像にまた一歩近づくレポートが出来て、本年も幸先の良いスタートが切れたと筆者は喜んでいます。そのきっかけを与えてくれた森さんには、深く感謝いたしております。尾崎天風については、今後も機会あるごとに調査を進めてまいりますので、ご協力をお願いします。

 《中庭だより》 
☆1月6日、伊藤調査員のお宅に「振り込め詐欺」の電話があったそうです。対応した奥さんが息子を名乗る相手の「生年月日」を確認しようとしたところ、突然電話が切れ、幸い未遂となりました。「人の不幸」をネタに、金を騙し取る連中が増えています。皆様もご注意ください。
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