ヌプンケシ111号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.111
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平成18年1月1日発行

 謹賀新年
   本年もご愛読のほど、よろしくお願いいたします! 
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◎B級戦犯 平手嘉一大尉(3)
◇A級戦犯
 昭和20年(1945)12月8日に設置された国際検察局は、翌年4月にかけて戦争犯罪人容疑で逮捕した者の中からA級戦犯被告を選定する作業を実施しました。そこでは、まず「膨張主義的超国家主義団体」「陸軍軍閥」など8作業グループに分れて調査を行い、それに基づいて執行委員会がリストを作成、最後にこれを各国から派遣された検察官全員の会議である参与検察官会議にかけ、被告を確定する仕組みになっていました。こうした結果、次に記す軍人・元首相・外交官・政府高官など28名が最終的に被告とされました。
 (1)荒木貞夫(元陸相・文相)、(2)土肥原賢二(元奉天特務機関長)、(3)橋本欣五郎(昭和初期陸軍革新将校による結社=桜会の中心人物、大日本青年党統領)、(4)畑俊六(元陸相)、(5)平沼騏一郎(元首相・枢密院議長、国本社会長)、(6)広田弘毅(元首相・外相)、(7)星野直樹(元企画院総裁)、(8)板垣征四郎(元陸相)、(9)賀屋興宣(元蔵相・北支開発会社総裁)、(10)木戸幸一(元内大臣・文相・厚相)、(11)木村兵太郎(元陸軍次官)、(12)小磯国昭(元首相・拓相)、(13)松井石根(元上海派遣軍司令官・支那派遣軍司令官)、(14)松岡洋右(元外相・満鉄総裁)、(15)南次郎(元陸相・朝鮮総督)、(16)武藤章(元陸軍省軍務局長)、(17)永野修身(元海軍軍令部総長・海相)、(18)岡敬純(元海軍省軍務局長)、(19)大川周明(民間ファシスト)、(20)大島浩(元駐独大使)、(21)佐藤賢了(元陸軍省軍務局長)、(22)重光葵(元外相・駐ソ大使)、(23)嶋田繁太郎(元海相・海軍軍司令部総長)、(24)白鳥敏夫(元駐伊大使)、(25)鈴木貞一(元国務相)、(26)東郷茂徳(元外相)、(27)東条英機(元首相・陸相・内相・軍需相・陸軍参謀総長)、(28)梅津美治郎(元陸軍参謀総長)。
 これ以外の戦犯容疑者は、次の起訴もあるということで巣鴨拘置所に収監されたままでした。
◇極東国際軍事裁判開廷

saiban 昭和21年(1946)4月29日、キーナン首席検察官が起訴状を提出。5月3日、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が開廷されました。その法廷として、敗戦時に第一総軍司令部や陸軍省、参謀本部が置かれていた東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校本館大講堂が改装されて使用されました。
 検察側は、張作霖爆殺事件の起きた年の昭和3年(1928)1月1日から、降伏条約調印の前日である昭和20年(1945)9月2日までを「侵略戦争を計画し準備し開始しかつこれを実行」した「犯罪的軍閥」が支配していた時期とみなし、この間に侵略を「共同謀議」した者=A級戦犯として、前掲28名を起訴しました。
  「裁判に臨むにあたり弁護団(鵜沢総明団長)は、天皇・皇室に累を及ぼさないこと、国家弁護を主とすることを弁護の根本方針とし、開廷するやウエッブ裁判長を忌避(却下)、管轄権動議を繰り返し提出して(全て却下)、裁判自体の法的根拠を問い、各被告の弁護にあたっては、『自存自衛論』に基づいて国家としての戦争が止むに止まれぬものであったことを主張した。これに対して検察団は、日本がおこなった戦争が、被告たち国家指導層による侵略計画の『共同謀議』の結果であることを立証しようとした。」(歴史科学協議会編『日本現代史』より)
 敗戦が決定的になった時点から、証拠になるような資料類は政府機関・軍・警察の手で焼却、隠匿されたため、物証=文書資料で有罪を立証するのは大変困難で、そのために証拠として4,336通の書証と419人の証人が採用され、それが裁判を長期化させる要因になりました。この公判過程で、敗戦まで秘密にされていた張作霖爆殺事件など満州「建国」に関連した陰謀、南京虐殺など「聖戦」の実態が次々と明るみに出され、国民に大きな衝撃を与えました。
◇その判決は?
 昭和22年1月5日永野修身が病死。大川周明は開廷早々、東条英機のハゲ頭を叩くなどの奇行で精神障害(仮病説あり)とされ、昭和22年4月には免訴されました。同年6月27日には松岡洋右が病死。以上の3名が審理からはずされました。
 結審は開廷から二年後の昭和23年(1948)4月16日でした。半年の休廷後、昭和23年11月4日から判決文の朗読がなされ、11月12日、残る25名全員に次の有罪判決が下されました。〈絞首刑〉7名=土肥原賢二・広田弘毅・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章・東条英機、〈終身禁錮〉16名=荒木貞夫・橋本欽五郎・畑俊六・平沼騏一郎・星野直樹・賀屋興宣・木戸幸一・小磯国昭・南次郎・岡敬純・大島浩・佐藤賢了・嶋田繁太郎・白鳥敏夫・鈴木貞一・梅津美治郎、〈禁錮20年〉東郷茂徳、〈禁錮7年〉重光葵。
 絞首刑は12月23日に執行され、翌日には予定されていた第2次裁判のため、拘束されていた岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら戦犯容疑者19名が不起訴処分で釈放され、12月29日極東国際軍事裁判所は閉鎖されました。禁錮刑になった18名も、拘禁中に死亡した5名を除き、昭和31年(1956)までに全員仮釈放されました。
 前掲『日本現代史』では、この裁判は「あくまでも連合国(とりわけアメリカ)による対日政策の一環として、日本の国家指導層の再編を目指す『裁判』であり、第三者による公平・公正な裁判とはいいがたいものであった。しかし、この裁判を『勝者の裁き』であるとして、その不当性だけを指摘することは東京裁判の歴史的な評価にはならない。東京裁判には、(1)日本の非軍事化・民主化政策の一環としての性格、(2)政治裁判としての性格、さらには、(3)アメリカの世界政策と日本支配層の合作としての性格、という三つの顔がある。」と指摘しています。
 実際、アメリカ政府は日本国民に絶大な影響力を持っていた天皇制の利用を考え、東条らに全責任を押し付け、処刑することで天皇の戦争責任を不問としましたし、また細菌戦の技術・情報提供と交換に細菌戦部隊であった「七三一部隊」の石井四郎中将ら関係者を戦犯とせず、逆に保護しました。中国革命の進行、ソ連との冷戦が激化するに伴い、対日政策も当初の民主化から、アジア戦略の軍事基地化へと転換されました。その象徴的な動きが、戦中に中国で謀略活動に従事していた笹川良一、児玉誉仕夫らの釈放でした。その後、彼らは前歴を買われ、アメリカの情報機関と密接な関係を持ち、黒幕として政界に大きな影響力を持ったことは、皆さんご承知のとおりです。ここら辺の事情に興味のある方は、春名幹男著『秘密のファイル−CIAの対日工作−』上・下(新潮文庫)をお読みください。(続く)

《中庭だより》
☆このごろ市史編さん事務室の知名度が上がったのか、大学生が卒論の関係で訪ねて来ることが多くなりました。当方としては、当室にあるデータはできるだけ提供するようにしていますが、安易に「答」を出すようなことはしていません。図書館等へ行って、もっと資料を探すようにアドバイスしています。自分で調査し、考えることが大切で、その方が身に付くからです。
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