ヌプンケシ118号

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市史編さんニュース NO.118
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平成18年4月15日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(10)
◇平手裁判の問題点=宣誓口供書の証拠性
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 B・C級裁判

 平手の裁判は昭和21年(1946)1月14日に始まり、非常に短期間に審理が行われ、第11回公判、1月25日に「絞首刑」の判決が下されています。裁判長はオリバー・E・O・トレッチャー大佐のほかに裁判官5名、検察官2名、米軍側が用意した弁護人が3人、日本人弁護人 高橋潔という構成でした。(右写真は同裁判と別物です。)
 公判で「弁護団はこの事件の起訴理由となる事実の陳述者が全て本国に帰り、法廷には書類が残っている、正しく『紙の裁判』という状況で裁判が行われることは不適当であり、かつ米国に属しない被告が米軍規によって裁判を受けることは失当であるとの意見を述べた。/これに対し検事団は、証人をこの法廷に連行することは事実上不可能であり、敢てこれをすれば極めて長びくのみならず、この裁判は本来『国際的性格』を帯びかつ『軍事裁判』である性質から書類を証拠とすることは適当であり、何国の犯罪人もこの戦時法規と慣習に従わなければならないと、裁判の正当性と準拠法の合理性を強調した。これに対し裁判長は、この軍事裁判は第八軍司令官の任命による構成員と、その決定した法規によるものであり、証人の陳述書を証拠として進行させることに決定したと宣言した。ここに裁判の合法性と証拠方法が確定した。この決定によりその後の裁判は全て、捕虜の書き残し宣誓口供書(アヒダビット)に基づく起訴状と、証人によって明らかにされた事実によって審理がすすめられることになった。」
 宣誓口供書を残した本人を召喚できないということは、弁護側は反対尋問ができないということであり、被告に大変不利なことでした。ですから、裁判長に「証人の陳述書を証拠として進行させることに決定した」と宣言された時点で、平手の「有罪」は確定したとも言えます。
◇「絞首刑」判決は妥当か?
 1月24日の第10回公判において、裁判官と平手との間で次の遣り取りがありました。

さて、この病人の捕虜が治療を懇願したのを黙殺した事実を見ると、サットルがついに死亡したことに、あなたはいくばくの責任があると思いませんか。
これは私のあやまちのひとつだと思います。
 「この裁判官の尋問に対する答、すなわちI think that is one of my mistake” が平手にとって致命的な証言となった。/検察側はこの証言に満足したのか、この後の審議で再反対尋問を一切していない。弁護人が慌てて2度にわたり再主尋問を行ったが、効果的な証言を引き出すことは出来なかった。/日本人的な考えからするならば、一転して己れの非を認める発言をしたことは、平手の誠実な淡白な性格の現われと同情的に受取れるが、この軍事裁判では平手がサットルを死に至らしめた罪を認めたものと断定された。」(以上の引用全て、田村重見著『友 その生と死の証し−B級戦犯平手嘉一大尉の生涯−』より)
 1月25日の判決文を見ると、起訴状にあった訴因7の「赤十字物資の不法管理」は無罪とされ、不適切な文言の削除はあるものの、それ以外は皆有罪とされました。
 しかし本当に平手が「有罪」だとしても「絞首刑」が妥当な判決であったのでしょうか。
 「横浜裁判の通訳をしていた大須賀・M・ウイリアム(連合軍翻訳通訳班ATIS)によると、裁かれた犯罪のうち捕虜収容所でおきた虐待行為の責任を問われた者がおよそ八割にものぼった。日本軍の捕虜収容所に入れること自体が虐待といわれるほど、彼我の生活程度や人権意識が違っていた。そのなかで収容所の関係者が起訴された。日系アメリカ人であり、彼我の生活水準の差を知る大須賀には、裁判そのものに疑問があったようだ。しかも、アメリカの法廷では決して受け入れられない証拠だけで、平手が裁かれたことは悲劇であると指摘している。/平手とは、函館俘虜収容所第一分所長平手嘉一中尉である。平手は、1946年1月22日(25日が正確)、絞首刑の判決が出ている。(8月22日執行〈23日が正確−引用者〉)彼の上官である函館俘虜収容所本所長畠山利雄大佐は、12年(1948年3月24日判決)、第二代の本所長江本茂夫中佐は不起訴、同じく三代目の細井篤郎大佐の名前は被告人名簿にもない。/先の『戦争犯罪被告人規程』にあった『被告人の上司又は政府の命令による行為は抗弁とならない』、ただ、『刑の軽減のため考慮することができる』との規定は、平手のような現場の責任者である下級将校の中から多くの戦争犯罪人を生み出している。」(内海愛子著「日本軍の捕虜政策」より)
 米軍通訳が平手に同情的であったことは、田村重見氏も自著で次のように記しています。
 「閉廷と同時に、裁判官・検察側・弁護側の3人の2世の通訳が走り寄って来て、私の上体を覆う様に抑えて言った。貴方そんな(田村氏がそんな馬鹿なことがあるかと叫んだ−引用者)こと言うと、法廷侮辱罪で告訴されます。この判決はひどすぎます。まだまだアイケルバーガー第8軍司令官が署名し、さらにマッカーサー総司令官が署名しなければ、刑は執行されないのですから、貴方はすぐ助命嘆願の署名活動をやってください、と慰め且つ励まして呉れた。」
 「こんな具合で2世通訳の激励に勇気を得て、早速助命嘆願運動に入った。東京での署名集めを友人に依頼して郷里の北見へ直行した。先づ、母校である北見中学校へ行った。校長は直ちに全校生徒一千余名を体育館に集合させて、私に主旨説明をさせて下さった。約1時間裁判の経過を話し、助命嘆願により、何とか平手を救い度いと後輩達に訴えた。満場寂として声なく先輩の悲運に涙して呉れた。学校は授業を一時中断して直に署名簿の作成と署名に入った。」
 「街頭では、冬の真盛りであったが、街の中央部に在った菅原正(平手の友人−引用者)の自宅を本部にして中学校の同期生と野球部のOBが中心になって、平手を救え!と大きな看板を立てゝ、メガホンを手に手に通行人に呼びかけた。更に北見市のみならず近隣の町村においても隣組であるいは職場毎の署名活動があった。」署名を拒否される例もありました。「出征兵士や入営する者の送別の場で、必ず白木の箱に入って帰って来いと、叫ぶ町内会長がいた。その町内会長宅へ署名願いに行ったところ、同じ人から、捕虜を虐待するような奴は、死刑になるのは当り前だ、と言って玄関払いされた。」「一部にはこういうこともあったが、多くの人々の懸命な願いも終に実らず、7か月後の8月23日午前5時、無念にも刑が執行された。」なお、田村氏が後に調査した資料にあった署名者の合計数は、12,336名あったそうです。
 横浜B・C級裁判初期、政治的な「見せしめ」として平手は死刑にされたと言えます。もしあの戦争がなければ、平手は外交官として活躍し、犠牲になることもなかったでしょう。(終)
《中庭だより》
☆最近、筆者は執筆の関係で昭和20年8月15日前後を調査しているのですが、当市関係の資料の少なさを毎日痛感しています。その中で平成15年に端野の岩崎巌さんから寄贈頂いた、敗戦時の「北海道新聞」が大変役に立ち、改めて資料寄贈のありがたみを感じたしだいです。
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