ヌプンケシ123号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.123
 タイトルヌプンケシ
平成18年7月1日発行

◎常呂川の流れから(5)

◇老人しかいないアイヌコタン
 現在の忠志の附近にあったコタン=チユウシには、アイヌの家が5軒ありました。上陸した松浦武四郎は、まず一番下の方の家から調査してみました。家主がウシヤコツカラ当年71歳、妻はケシベクシと言い、長男夫婦のほかに男孫二人女孫二人の8人家族でしたが、そのうち、息子夫婦と男孫二人がリイシリ(利尻)へ、年長の孫娘がモンヘツ(紋別)、末の孫娘もソウヤ(宗谷)に、それぞれの漁場に連行されていました。家は71歳の爺さんと70歳ばかりの病身の婆さん、二人だけで、その日その日に川で雑魚を取って暮らし、今日は誰か帰ってこないか、明日は誰か帰ってこないかと、それのみを思って暮らしていました。(下図は、幕末の鰊漁場)
ainu.gif
 隣の家主は当年 90歳のエコキラで、息子3人と甥1人、姪1人の6人家族でした。しかし今は三男で武四郎の案内人の一人、サケハナを除き、4人の子どもらは、結婚しても良い年齢なのに、皆リイシリへ連行されてしまった。この家にはサケハナ一人のこり、彼を頼りに今まで生きながらえてきたが、くやしいことに、今年のように川に魚がいなくてはもはやほどなく死ぬしかない、と武四郎たちの顔を見るとこの老爺は泣き出しました。武四郎は実に気の毒に思い、目を向けることもできませんでした。そこでサケハナをここへ残すことにし、米一升を与えて別れました。
 次の家主はシノツチヤロという者なのですが、この者もリイシリへとられ、家には 80歳くらいの盲目の婆さんと60歳くらいの婆さん、二人しかいませんでした。ここにも米と針などをわたしましたが、武四郎の個人の米も少しばかりあげたので、細い声で礼をいわれましたが、その様子にま共に目を向けられませんでした。
 またその隣は、家主コヒニセ58歳、妻コニヒテコロ、倅(せがれ)はルウエルエ、次男トエトキ、甥エキリアン、姉アリフンケ、姪クロカコロ等家内7人でしたが、息子たちも甥も皆、ソウヤ、モンヘツ等にやられ、家にはわずかに夫婦が残っている状態でした。ここにも米や煙草をあげました。
 その隣、5軒目の、このコタンで小使を務める家主エコラツセの家で休むことにしました。この者は当年61歳ですが、至極気丈で、すこぶる英気がありました。猟を好み、弓をよく引き、今日も山へ猟に行っているというので、隣家のコヒニセを案内に見に行くことにしました。同家には妻トルサマ、倅サンケフシユイ、嫁ヒツキ、孫テレキ、甥ヲシヨロフエなどがいましたが、この家も倅夫婦はソウヤへ引上げられ、家にはただ家主夫婦のみということでした。
このように、元気の良い若者、働き盛りの連中は藤野家が管理する漁場へ強制連行されて、コタンには老人しか住んでいない状態だったのです。これでは子どもを生み育てるというアイヌ民族の生命の再生産などできるわけがありません。武四郎が心痛めたのも無理ありません。
◇アイヌの畑
 5合ほどの米を粥に煮させて、コヒニセを案内人に背後の山に登ってみました。2丁ほど登ったところに、二枚ほど畑が作られ、狸豆が作付けされていました。そのわけを彼に聞くと、和人のように麦や茄子といったものを始めから作るより、最初は山でも野でできるものを試したほうが良い。もし麦を作付けしたとしても、取れなければ2年目には誰も畑を作る者はいないから、これを作ることにしたとのことでした。武四郎は実に先見性があると評価しています。
 なおそこから17、8丁登って、武四郎は回りの山々を方位で確認しています。ここら辺の記述は、紙面の関係で割愛します。知りたい方は、『北見市史』資料編を読んでください。
◇陸路を行く
 山から小使の家に戻って、粥を食べてから武四郎達は出発しました。チユウシで道具を船に残し、案内人二人に塩味噌と米袋を背負わせて、陸路を行くことにしました。何故、ここで舟を降りたのか、武四郎はその理由を書いていません。鈴木三郎先生は「ここ迄の間土産品も食料も減じて残り少くなったので舟で上る迄もないと考えたのであろう。それに曲流がひどく、木詰まりが各所にあるということも理由の一つではなかったかと思われる」としています。
 道筋には木賊(とくさ)が3、4尺(1m前後)にもなり、倒木も多く悪路だけれど、河ぞいにアイヌの往来する道があるので、それをたどりながら進みました。武四郎は常呂川を左手に見て陸路を行く間にも、子細に観察を続けました。「シュンクウナイの川上の山に松が多く、川口附近には倒木が多いことや、転太石が河底に多いことを聞かされ、チユウシから約2.5kmの処にチルラトイという急流で、転太石場の附近に昔人家があったこと等を聞かされた。更に南方近くにキナチヤウシナイとかシヤシホコマナイという、端野原野形成に大きな役割を果した川を望見し、それ等の川に沿って行けばアバシリ川すじに出られること、特に堅雪の頃であれば一日で達せられるということを聞かされた。それに、曲流が多いので河を舟で行けば二里(8km)かかる所を、陸路では20町(2km)で達せられるとも聞かされた。」
◇ヌツケシ
ヌツケシ地図
 チユウシから陸路を約一里歩いて、ヌツケシに着きました。ここは広大な中ノ島にあったようですが、度々の洪水で川の流れも変わり、今では確認のしようもないそうです。武四郎は「ヌツケシ」の意味を「山の鼻のさし出たる処有」としていますが、いまでは「野の端」とされています。鈴木三郎先生はこの「野の端」と名づけられた理由を次のように解釈しています。つまり、ヌツケシが「北見盆地の末端であることから生まれたと思われる。常呂川を遡上して来たアイヌは、ホロナイヒラ(旧太茶苗駅逓所在地点)から始まった山間部の中を上り続け、時には恐怖さえ感ずる高い急崖の下を通る峡谷を通過して来た果てに、急に河床が広がり、左右の連山も遠のいた所に出て眼が開ける思いをした。ヌツケシに上陸して山の一角に登って見ると、眼下には広大な平野が展開している。密林が各所に散在しているが、この広大な平野は遠く遙に南方に広がっていて、遮るものもない果ては青空の中に模糊として消え去っている。振りかえって自分の立っている場所を見ると、それはこの広大な平原のちょうど入口であり、末端であることを知る。彼らは一様にここは野の端だと叫んだことであろう。」(続く)

《中庭だより》
☆現在、筆者も『北見現代史』の担当分野のまとめに入り、帰宅後もパソコンに向っているのですが、資料が少なく、疑問ばかりが膨らんで進行せず、困っております。誰か助けて!!
NO.124へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館