ヌプンケシ148号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.148
タイトルヌプンケシ
平成20年8月1日発行

馬場酒造店のこと(3)

◇各地に支店、出張所を展開
 馬場酒造店が各地に支店、出張所を展開していたことは馬場氏の経歴を掲載した名士録に色々紹介されていますが、具体的な支店名等はまちまちです。そこで、名鑑などにある広告から、どのようなところに支店、出張所が展開していたか、探ってみたいと思います。
 一番古い馬場酒造店の広告が載っている資料は大正12年発行の『野付牛総覧』で、ここには「馬場酒造店」と「北の天販売部」しかありません。
 続いて昭和2年発行の『野付牛商工案内』の広告には「馬場醸造店」「馬場販売店」のほかに「美幌町/馬場支店」「遠軽岩見通/馬場支店」の店名が見られます。
 昭和9年発行の名士録『北見大観』の馬場昌久氏の文中には、「釧路 帯広 留萌 遠軽 美幌等各地に支店を設けチエーンストア式の新形式にて隆々たる発展をなしつゝあり」とあります。
 昭和13年発行の『野付牛商工名鑑』には「馬場本家」「馬場販売部」「釧路出張所」「札幌出張所」「十勝上士幌出張所」が並んでいます。
札幌の展示会場と思われる写真 さて、右の写真ですが、現物には札幌S.モリタ スタジオの押し印がありますので、札幌での展示会場での展示の様子を写した写真だと思います。これには、野付牛を中心に札幌・遠軽・釧路・帯広・上士幌・大樹の文字が地図上に読みとれます。先の広告の流れからいうと 昭和10〜12年の間の、馬場酒造店として最大の販売網があった時期の写真と見ることができます。
 こうして整理してみると、大正末年から昭和初年頃に美幌・遠軽に支店が開店し、昭和9年までに釧路・帯広・留萌がこれらに加わったと見られます。そして昭和10年以降に美幌・留萌が脱落して、替わりに札幌・上士幌・大樹が開店して、昭和12年(1937)の日中戦争勃発以降は物資不足を反映して、最後に釧路・札幌・上士幌で落着いたのでしょう。
 それにしても、戦前に野付牛から全道展開した馬場氏の発想と実行力は驚くべきことだと思います。
◇北の天酒場
 次ページの写真は、「北の天酒場 江戸長」の開店記念写真のようです。場所は現在の矢田青果店のある北2条西3丁目角です。左奥には不鮮明ですが、「ホームラン」の看板が見えます。
 このホームランは、古い写真で見なれた昭和6年(1931)に別の場所にあった写真館を移設したモダンな建物ではなく、その前の古いもののようです。昭和4年発行の『野付牛明細図』には、同地点に「市場」北の天酒場 江戸長の開店記念写真「若松自動車部」という記載しかありません。従って、この店の開店は昭和5年(1930)頃と推測されます。この店は馬場酒造と特約で酒「北の天」を安く卸してもらうようにしていたのでしょう。
 目抜き通りの看板に「皆さんお好みの地元のおさけ 北の天」なんてキャッチフレーズも考えて、なかなか馬場酒造店は宣伝上手であったようです。
 最初はこの酒場の場所がわからず、あれこれ悩んでいたのですが、資料調査で中央図書館へ行った時、昭和7年6月27日付「北見毎日新聞」のコピーを広げ、何の気なしに広告欄を見たら、次のような「開店挨拶」が目に飛び込んできました。
 「拝啓時下新緑之候ますます御清栄奉賀候/陳者 不肖 第二初音平素名位(各位の間違いか?−引用者)の多大なる御引立を蒙り誠に難有ますます斯界の研究に専念致申居候。就而今回北の天醸造元と契約致し本町随一たる場所『元江戸長』跡に於て内外設備を一新し御気軽に御遊ばさるゝ様留意いたし北ノ天酒場名称『都会』カフエー御手軽宴会並びに食堂を経営致す事に決定致し申候/自慢の和洋食、寿し、うなぎを初め出前外御希望の御食事に応じ七月一日を以て開店仕る可く候間今後一層の御声援相成度伏して奉懇願候/当町二條通西三丁目角(元江戸長跡)」
 これで一挙解決でした。この「北の天酒場」が「江戸長」から「都会」に変遷したこともこの広告で分かりました。このカフェー「都会」も、昭和8年12月発行の『大日本職業別明細図』の同地点をみると「金星百貨店」になっていますから、その営業は短命に終ったようです。
 このように古い新聞広告にも思わぬ情報があるので、毎回見落とさないようにしています。
◇消防組でも活躍
 戦前も金儲けに励んで金満家になれば町の名士になれたわけではなく、町民のためになる仕事をしなくては誰も認めてくれませんでした。その意味で当時消防組に参加することは名士の証でしたから、馬場昌久氏も積極的に消防に参加しました。平成2年に発行された『北見の消防』に昌久氏のことが特筆されていることは、ヌプンケシ136号でも紹介したところです。
 それによると昌久氏は、消防では大正12年(1923)29歳の時に第4部の小頭になったのを振り出しに、大正15年には第4部長に昇進し、43歳になった昭和12年(1937)8月には第5代消防組頭に就任しました。そして、昭和14年4月、満州事変以降軍部が指導して設置された防護団(民間防空組織)と従来ある消防組を統合した全国的な警防団の発足と共に初代警防団長となり、翌15年(1940)3月にその職を辞し、17年余にわたる消防生活を終えています。
 馬場氏にとってもそれらは忘れがたい思い出だったのでしょう、紙面の関係でお見せできないのが残念ですが、寄贈のあった写真類にも旧西小学校校門前で人力で牽引する消防ポンプ車と組員共々写っている写真、野付牛消防組第4部という看板を掲げた消防ポンプ自動車格納庫前で撮った写真、消防演習の写真、警防団関係の写真などがありました。(続き)

《中庭だより》
☆版画をはじめ文化に大きな功績を遺し、5月27日に95歳で逝去された景川弘道氏のお宅を、ご遺族にお願いして先日(7月22日)訪問し、内部を拝見してきました。屋根裏部屋と2階には版木・版画がぎっしりで、手帳類もたくさんありました。まだまだ貴重な資料があると思われるので、ご遺族にはどのような物でも捨てないようにお願いしてきました。
NO.149へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館