ヌプンケシ175号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.175
 タイトルヌプンケシ
平成21年9月15日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(9)
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◇在シアトル領事から外務大臣への公文書      
 さて、杉町の「御願書」が提出後、どのように処理されたかを次に見てみましょう。
 杉町から話を聞いた「在シアトル領事 斎藤 博」は、大正11年(1922)5月23日付、公第一六〇号をもって「外務大臣伯爵 内田 康哉 殿」にあて、「徴兵乙種合格者ノ現役編入ニ関スル件」と言う件名の文書を発送しています。その内容は次のとおりです。
 「北海道北見国常呂郡野付牛町二条通東一丁目、戸主 巳之吉 長男、/杉野 八重充/明治三十一年十月四日生 /右ハ目下英国へ留学途中当地『ワシントン』大学ニ於テ語学専攻中ノ者ニ有之候処 本年度徴兵検査ノ為メ至急帰国スベキ旨通知ニ接シタル趣ニテ別紙願書ノ通リ縷々事情ヲ具シ検査寛恕方願出有之候 而シテ同人カ来館ノ上 申述フル処ニ依レハ 願書記載ノ通リ 客年六月徴兵受検ノ結果 歩兵乙種合格トナリ 仝年八月補充兵ニ編入セラレタルヲ俟チ 外国旅行ノ趣ヲ其筋へ届出 旅券ノ下付ヲ受ケ出港スヘキ筈ナリシ処 該届書ヲ役場ヘ持参セシ際 恰モ機動演習ノ為メ兵事係多忙ヲ極メ居リ 終ニ之ヲ提出シ得ス 其実父ニ届出ヲ依頼シ置キテ 其侭出港渡米セシニ 実父ハ之ヲ忘却シ居リ 十二月ニ至リ 其筋ヨリ現役編入ノ通知ニ接シ 倉皇右届書ヲ提出セシモ 時既ニ遅クシテ受理セラレズ 由テ本年五月再ビ徴兵受検ノ為メ帰国ヲ要スル由ニ有之 当人ハ甚ダ困却シ 其筋ニ於テ右事情ヲ諒察セラレ寛大ノ処置ヲ仰キタシトテ 右願書ヲ当館ニ提出所以 右徴兵官ノ処置ハ素ヨリ法規ノ命ズル処ニシテ 事情止ムヲ得ザル義ニ有之ドモ いったん補充兵役ニ編入セラレ 渡米旅券ノ発給ヲ得 少カラス旅費等ヲ遣ヒ 漸ク当地 華盛頓大学ニ入学シ勉学ノ途ニ就カントスル際ニ当リ果シテ本人申立ノ如ク 旅行届ノ提出ヲ怠リタルノ故ヲ以テ 帰国ヲ命ジ 徴兵検査ヲ受ケシムルハ 本人トシテ、自業自得トハ云へ 同人前途ノ為メ 少カラズ障碍ヲ来サシムルモノナラント思考セラレル次第ニ付 出来得クンバ 其筋ニ於テ同人ニ対シ特別ノ考量ヲ加へ 願意聴許又ハ其他ノ方法ヲ以テ 本人ノ留学目的ヲ貫徹セシムル様 可然 其筋ト御協議ヲ欲度別紙願書ヲ添ヘ 此段申進以 敬具」
 斎藤領事は非常に杉町に同情的で、今回の件が彼の前途の障害になると考えられるので「出来うれば、その筋において同人に対し特別に色々考慮し、(現役兵からはずして、もう一度補充兵に編入する)願いを聞き届けるか、その他の方法で留学の目的が貫徹できるよう、然るべくその筋と協議をお願いしたく、別紙願書を添えて上申いたします。」と最後に書いてあります。
◇外務省から野付牛町役場へ
 
外務省から大正11年6月16日付、通移普第二八二八号をもって「補充兵ニ編入セラレタル者ノ徴兵再検査ニ関スル件」が野付牛町役場に送付されました。その内容は次の通りです。
 「原籍地北海道北見國常呂郡野付牛町/二条通東一丁目、戸主巳之吉長男/杉町八重充/明治三十一年十月四日生/右ノ者英国ノ留学ノ途中目下米国シアトル市『ワシントン』大学ニ於テ語学専攻中ニ有之候處 本年度徴兵検査ノ為 至急帰国スベキ旨 郷里ヨリ通知ニ接シタル趣ニテ 本人ヨリ別紙願書ノ通リ事情ヲ具シ 徴兵検査寛恕方ヲ在シアトル帝国領事館ニ願出ノ次第有之候趣ヲ以テ 今般在同地齋藤領事ヨリ右ニ関シ 便宜取計方申越有之候ニ付テハ委細別紙願書ニテ御了知相成リ 右ノ事実御取調ノ上 果シテ本人申出ノ通リノ次第ニ有之候ハバ 可成同人ニ対シ特別ノ考量ヲ加へ 願意聴許 又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ 本人留学ノ目的ヲ遂行セシムル様 何等カ便宜ノ取扱致シ難キモノニ候ヤ 一応其ノ筋ト協議相成リ 何分ノ義 至急御回報相煩度 別紙杉町八重充願書添付 此段申進候也」
 外務省からの公文書は、要約すればシアトルの斎藤領事から便宜を取計らうよう言ってきたので、取調べて事実が本人の言う通りであれば、「留学ノ目的ヲ遂行セシムル様」一応「其ノ筋」と協議し、その結果について至急返事がほしいという内容です。
野付牛町役場から外務省へ
 これに対して、野付牛町役場から外務省へ次の簡単な回答がありました。
 「兵第一三九九号/大正十一年六月二十一日 野付牛町役場(役場の公印)/外 務 省 御中 補充兵役ニ編入セラレタル者ノ徴兵再検査ニ関スル件/本月十六日付通移普第二八二八号ヲ以テ御来意相成候本件 本人ハ本月十六日一時帰国 来ル二十二日ニ本籍連隊区ニ於テ徴兵受検ノ者ニ有之候条 願書添付此段及回答候也 /徴兵受検者 杉町八重充」                          
 この回答によれば、杉町は大正11年6月16日に日本に一時帰国して、同月22日には本籍の連隊区で再検査を受けたということになります。この回答文書には再検査の予定日しかはされていていませんが、何故か、これで外務省は「一件落着」としたようです。
 この頃は、シアトルから横浜まで2週間ほどの船旅だったようですから、杉町は6月初めにはアメリカを離れていたことになります。これはあくまで仮説ですが、杉町は斎藤領事とよく相談して、徴兵機関の顔を立てるため、再検査を受けることとして、急きょ帰国したのかも知れません。結果は、多分、斎藤領事など外務省の働きかけがあったために、補充兵編入か即日除隊か、方法は不明ですが、杉町は「現役兵」にならず、再び留学ができるようになったと思われます。もし、現役兵となれば3年間は兵役に服することになり、当然、杉町の生涯にふれた論文にも反映があるはずなのですが、日本で兵役に服した記述は見当たりませんでした。
◇その後の杉町は・・・
  アメリカに渡った杉町はワシントン大学の政治科に入学しますが、殆んど英語の教科書が読めず、レポートも書けない状態でした。そこでシアトルの邦字新聞『北米時事』に入社して実地に英語力をつけながら大学に通う苦学をし、後に社会学に転学して学位を取得。昭和5年(1930)には南カリフォルニア大学大学院で修士号を取得しました。その間、昭和3年(1928)『羅府新報』の記者となり、昭和9年(1934)まで勤務しましたが、そこで日本人子弟の日本語教育の必要性を痛感、同年、羅府第一学園教師として働くことになりました。昭和14年(1939)パサデナ学園長、パサデナ日本人会書記長を歴任。太平洋戦争の勃発により日本語学校は閉鎖され、FBIに「反米で国粋主義者」と疑われて検束をうけ、ニューメキシコ州サンタフェ収容所、テキサス州シーゴビル収容所などに転々と移されました。どこの収容所でも日本人代表として収容所当局に対して毅然たる態度を取り、重営倉に入れられたりもしました。
 戦後はロスアンゼルスの日本語学校復興のために奮闘され、幾度か来日、昭和36年(1961)には2冊の著作により放校処分された明治大学から法学博士の学位を授与されました。(続く)

《中庭だより》☆先日、9月3日、本紙の読者で、お父様(92歳)が戦前馬場酒造店に勤務していたという女性が、お店の作業時に歌った「数え歌」でお父様が記憶していた部分を聞き書きして、親切にも当室へ届けてくださいました。思わぬ貴重な情報提供に、大変感謝しております。
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