ヌプンケシ124号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.124
 タイトルヌプンケシ
平成18年7月15日発行

◎常呂川の流れから(6)

◇ヌツケシの様子
 ヌツケシには人家が3軒ありましたが、着いた時間は「七ツ頃」(今でいうと午後4時すぎ)で、松浦武四郎たちはぜひ今日中に「ノヤサンヲマナイ」にまで行きたいので、各家をのぞいていくだけにしました。
 小使エコラツセに扶養されている女性、カキカンマツを家主とする家には、姉娘リクンケ、次娘モレウテ、リクンケの娘(家主にとって孫)の4人家族でしたが、娘二人はソウヤへとられ、家主と孫娘しか残っていませんでした。その隣はリクンケの家で、誰もいませんでした。
 そのまた隣は、家主チヒコルエケという病人が一人住んでいました。この人はチユウシのエコキラの次男とのことでした。この人に「発陽湯」(漢方薬?)を与えて出立しました。
◇野付牛と端野
 このように幕末の「ヌツケシ」は淋しい限りでした。しかし、ここには明治になってもアイヌが住んでいたので、明治五年(1872)壬申戸籍編製のためアイヌコタンを村にみなすことになったとき「ノツケウシ村」となり、明治八年に本字が当てられて「野付牛村」となりました。
 この「野の端」という意味のヌツケシを「意訳し、それを漢字で表現したのが端野で、これが明治二十四年(一八九一)、中央道路沿いに二号駅逓が設置された時、二号端野駅逓と名付けられ、以来、駅逓付近を端野と呼ばれていたが、この地区が野付牛町から分村すると端野村と称し、現在の端野町となった。」と鈴木三郎先生は『北見市史』上巻に書いています。
◇ノヤサンヲマナイ

ノヤサンヲマナイ ヌツケシを出て南へ向って12、3丁いくと樹木のない笹原にでました。さらに行くと大きな野原にでてそこには周囲5丁ほどの沼がありました。その沼口を越えて、およそ7、8丁過ぎて四方が見通せるヌホンケシ「木の無い原」いう所にでました。
 このように「草原は次第に広がり、二、三里(八〜一二キロメートル)に渉って一望の草野原が展開してくるその中を六キロメートル程行った処に、ノヤサンオマナイがあった。意味は此処は沼であった所というのである。おそらく湖の名残りで、彼が足を踏み入れた頃は湿地帯でなかったかと思われる。只この地名は他記録にも、他書にも見えず、又松浦の廻浦日記にも記載されておらず、突如として出現した形である。従って現在の地図上にこの地点を求めることは極めて困難である。ヌプケシを発してから、ここ迄の大凡の距離を彼の記録に依って計算しそれを基に実地踏査をしてみると、端野町二区から三区間に渉る区域内に存在することは推察されるが、松浦の記述の中に、何等物的な手掛りとなるものが無いので、明確な地点に迄追跡することは仲々困難である。僅か前記の沼であったと云う事だけが唯一といって良い物的手掛りである。」
◇アイヌ語地名表記の難しさ
 ここで「ノヤサンヲマナイ」と「ノヤサンオマナイ」、「ヌツケシ」と「ヌプケシ」の二つの地名の呼び方が出てくるのですが、アイヌが文字を持たなかったので、聞き取りで記録されているわけで、どちらが正しいとか、間違いとかいうことはできません。記録者それぞれの聞き取り方、書き方で違ってくるのです。同じような例が、実にたくさんあります。
 たとえば、先月、広報担当に常呂にお住まいの匿名の方から、清水昭典先生が書いた文に「フトチャンナヘ村」「テシマナビ村」とあるのは間違いだ、「フトチャンナイ村」「テシオマナイ村」が正しいと「お叱り」の電話があったそうです。しかし、清水先生は公文書を根拠に村について書いているわけで、地元で馴染んだ呼び方と違うから間違いと言われても困ります。このことについては筆者も悩まされています。その点は読者の皆様にもご理解頂きたいと思います。
◇ノヤサンヲマナイの様子
 夕方についたノヤサンヲマナイには人家が3軒ありました。
 1軒目の家主はキムンシヨカ42歳で、妻はホソエンカル、同居の女性ケロ、倅エコロハト、子ども二人の計6人で暮らしていたのに、家主とケロはソウヤへ行って3年ほど帰らず、倅もリイシリへ去年の春より取られ、家には妻と子ども2人しかいませんでした。
 その隣は、女家主のトシケルで、病気で寝ていました。倅ウサル、嫁ヲルシマツはソウヤにやられ、あとは姪のアリモンケと二人で留守を守り、姪に養ってもらっている有様でした。
 そのまた隣も、女が家主のフツシヤタで、足に障害のある倅ケレシ、カテレ、夫をなくしたカベカとその子ども、全部で5人が暮らしていたのですが、カテレはソウヤにとられてしまったということでした。15日の夜、武四郎はこの家に泊めてもらうことにしました。
 この辺はその年飢饉で、実に何も食い物が無いので、ようやく雑魚を毎日少しずつ獲って生活しているということでした。だから、ここにも白米一升を与え、粥を煮て、皆で食べました。
◇トカチからきたアイヌ
 そこへ、山からウエンサムシという、年の頃27、8歳のアイヌが一人帰ってきました。そこで何処の者か武四郎が聞いたところ、「私はトコロの川上の者で、12歳の時に父に連れられてアシヨロを越えて、トカチの山にいましたが、この度アシヨロのシラツテアイノと喧嘩をして、ここへ逃げてきました。」と言いましたので、武四郎もトカチ川筋のアイヌの乙名等の事を聞きました。そうすると不思議そうな顔をして彼が言うには「ニシハ(=旦那)は松浦ニシハではないですか。必ず、この間、石狩よりトカチへ越して来られるということをトカチ山で聞いてきました。」と、礼儀正しく接待してくれたので、武四郎も知人にあったようで、大変うれしかったようです。そこで「何故ここへきたのか」と尋ね、その次第を聞きました。それからこのアイヌはトカチ、アシヨロの山々をくわしく教えてくれました。
◇小使エコラセ
 夜の五ツ(8時)過ぎと思われる頃、小使エコラセが訪ねて来て、慇懃に礼をして、「明日から案内いたしましょう。」と言いました。そのあと、この小使はこの家の者たちに「畑を作っているか」と尋ね、いまだ一切畑を開墾していないのを聞くと大変怒り、「この間もこしらえるように申しつけておいたのに、まだこしらえていないとは」と叱りつけました。家の者たちは「それでは明日より作ることにいたします。」と答えたそうです。
 この村は木立の中にあったので、日中は蚊がたくさんいたのですが、夜になると一匹も居らず、安心して眠ることができました。(続く)

《中庭だより》
☆『北見現代史』で相内出身の憲法学者(故)久田栄正氏を紹介しようとしたら、当市には全く資料無しで、筆が進まずひどい目に遭いました。資料収集の大切さを再確認させられました。
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