ヌプンケシ260号

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.260

タイトル ヌプンケシ

平成25年4月1日発行


◎大町桂月の北海道旅行(10)

◇『歴史の散歩道』にある、もう一枚の「大町桂月の書」

 昭和61(1986)6月発行『歴史の散歩道』にある「大町桂月の書」には桂月は林保衛氏に会った後、次に同郷人の村議(町議が正確)飯田義茂(いいだ よししげ)氏を野付牛町役場に訪ね、「邦人(日本人)は米に因って活()きる。瑞穂田園に満ち、粒々これ辛苦、化して日本魂と為る」との書を書き贈ったとあり、同書には右の掛軸の写真も掲載されています。

 しかし、いつ訪問したか、明確な日にちは書いてありません。

 しかも、この話は桂月日記には出てきません。前号で紹介した書会に関する記事の後は、全く素っ気無く「九月六日/野付牛一泊/七日は書会 演 夜網走」としかありません。

 他の資料でも、『北見市史』年表編に「9.7  大町桂月、北見地方を旅行、野付牛尋常高等小学校で講話、また漢詩『乗鶴重来野付牛』を作る。」とあるだけでした。

 今のところ、9月7日、野付牛尋常高等小学校(現・西小学校)でした講演の前後に、野付牛町役場に立寄ったと筆者は推測しています。

◇飯田義茂氏

 さて、この飯田義茂氏ですが、第4代野付牛町長を短期間務めたこともある政治家なのです。その略歴は各種資料を整理すると次のとおりです。

 飯田義茂氏は、明治15(1882)1210日、高知県長岡郡大杉村(一説に本山村上関)に父・正晴、母・キヨの長男として生まれました。明治30(1897)父達と共に北光社移民団の傍士班として、野付牛村ムカ原野(現・豊地)に入地しました。次々脱落する移民の残した土地を苦心して開墾し、大農場を経営するまでになり、周囲から町会議員に押されて、大正7年(1918)から連続当選、昭和6年(1931)3月には野付牛町長となりますが、昭和7年5月に起きた町役場全焼火災の責任を取って辞職しました。(この火災については、当ニュース96号を参照してください。)その後、昭和9年(1934)町会議員に復帰、昭和11年北海道会議員を一期、昭和17年「1942」市制施行に伴う第1回市会議員選挙に当選、市会副議長になりました。その他、農会産業組合長、北海道農会理事を経て、昭和21(1946)から衆議院議員に3回当選。昭和42(1967)9月20日、東京にて死去、84歳でした。

 上の写真は、大正11(1922)10月発行『北見之人』に掲載された同氏の写真です。桂月が野付牛に来たのが、大正109月ですから、1年後の写真ということになります。前途有望な青年議員といった感じですね。

◇野付牛を詠んだ漢詩は、1首だけ

 1011日の日記には、それまで北海道旅行で詠んだ俳句42首、漢詩26首が確認の為か、記されています。それを見ると林家に贈ったもの以外では、野付牛を詠んだ漢詩は一首しかありません。例の宴会で酔吟した時の漢詩に手を入れたものです。

  元是深叢熊所遊、 烟華燐爛似揚州

  腰纏百萬十年後、 金鶴重来野付牛

 間違っているかも知れませんが、恐れず意訳すれば、「元は熊が遊ぶ深い草むらだった野付牛に、十年後には(昔中国で栄えた)揚州に似てきらびやかなかすみがたなびき、百万を腰にまとった、金の鶴が重ねて来る。」といったところでしょうか。野付牛の変り様と景気の良さを詠った漢詩です。なお、この漢詩の掛軸の実物、写真の類を筆者は見たことはありません。

 桂月日記の9月13日には、8月29日から9月12日までの宿泊地に○×をした記事があるのですが、何が桂月の気に入らなかったのか、常呂、上相ノ内、温根湯、野付牛、いずれも×になっています。野付牛に関する漢詩が1首だけなのも、仕方ないのかも知れません。

◇網走から斜里へ

 9月7日の夜には、桂月は野付牛から引上げ、網走に泊まりました。翌日も網走に泊まったのですが、何をしたか具体的な記述はありません。

 9日には、駅逓の馬を利用して、大町、田所、他に同行者が一人、馬追いの計4人で斜里を目指して、9時半に網走を発ちました。(原文を引用すると面倒なので、要約します。)

 藻琴湖、濤沸湖を過ぎ、12時半に振問(フレトイ)駅逓に着き、馬を乗換えて1時半に出発。2時半に止別(ヤンベツ)に着き、関係者の出迎えをうけ、一休みしました。

 2時間かかって、斜里へ。途中、斜里岳、羅臼岳、藻琴山、阿寒の山頂を眺めることができました。それで桂月は記事の最後に「自網走至斜里九里半 斜里方面は山のかたち大によし」と感想をしたためています。

 斜里川は原木を流し、海にはそれを積む巨船5艘がみえました。その様子を、次の漢詩にしています。

 

  斜山生瑞木 斜水運良材/地利集斜里 巨船千里来

 また、網走から斜里までの光景も次のように詠んでいます。

  湖水接湖水 時々見海濤/野花秋爛漫 斜岳馬頭高

 天気にも恵まれ、夕焼けも美しく、気持ちの良い小旅行であったようです。

 10日は午前中に書会、記念撮影もあったようです。帰りは浜の見送りを受けながら船で1時20分斜里を発ち、海から山々を眺めながら5時には網走につきました。その後は「夜、華村」とありますから、飲みにでも出たのでしょう。

◇桂月、日記の日にちを一日飛ばす

 そこで飲み過ぎたせいなのか、「9月11日」のことが日記になくて、「12日」に日にちが飛んでいます。どうも、11日のことを12日のこととして日記に書いているようなのです。

 というのは、桂月日記には「9月14日」に汽車で網走から池田を経由して釧路へ向ったことが書かれているのですが、そこには留岡幸助が野付牛から乗り込んで池田で別れたことが記されています。それで、前に引用した『留岡幸助日記』第4巻と照合してみると、「九月十三日() 午前六時五十分にて遠軽駅出立。」とあり、「九月十四日() 午前五時半札幌駅着」とありました。留岡は14日に道庁と水田造成の交渉がありましたので、日にちを間違えることはありえませんから、結論として桂月が日にちを一日飛ばしていたことになります。

 その後、日にちを訂正したか桂月日記をざっと見たのですが、確認できませんでした。(続く)

 《分庁舎だより》☆先日、国立国会図書館のデジタル史料で明治32(1899)7月現在の『北海道各官庁職員録』を見つけ、屯田歩兵第四大隊付軍医5名・軍吏1名の名前と、相ノ内三等郵便電信局職員北川則知の名前を初めて見ました。これで市史の空白が少し埋まりました。 

 

NO.261へ

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館