ところ遺跡の森:遺跡案内

「ところ遺跡の森」遺跡案内

 史跡常呂遺跡の一角に位置する「ところ遺跡の森」内には、擦文時代(約900年前)、続縄文時代(約1800年前)、縄文時代(約4000年前)の各時代にわたる集落遺跡が広がっています。現在でも竪穴居住が建てられた跡の穴が窪みとなって残っており、1000年近く、あるいはそれ以上昔の集落の様子を実地に見ることができる貴重な遺跡です。
 遺跡の森内では、擦文時代の集落跡と縄文~続縄文時代の集落跡が重複せず異なる地点に分布している点でも特徴的であり、それぞれの地点を見学できるよう整備しています。
 また、擦文時代の集落のはずれにはアイヌ文化期のチャシ跡に類似した遺構も残されています。

ところ遺跡の森案内図

擦文の村

 擦文時代後半、11~12世紀ころのものと考えられる集落の遺跡で、台地の西側の小さな谷周辺で見つかっています。
 擦文時代の住居は正方形の掘り込みに屋根をのせた形態をしていましたが、この住居の掘り込みの跡が埋まりきらず、四角い窪みとなって残っています。
 同じ立地で繰り返し住居の建て替えなどがおこなわれたため、多数の住居跡がのこされています。遺跡の森ではこうした擦文時代の住居跡が約50基見つかっています。

写真1-1
写真1-1
写真1-2
写真1-2

 遺跡の中には地面が窪んだ箇所がいくつかあります(写真1-1)。この窪みが竪穴住居の掘り込みの跡で、11~12世紀ころに建てられた住居の跡がこのような形で現在まで残っています。
 この時代の住居は正方形をしていましたので、窪みも四角い形をしています(写真1-2)。

擦文の村
また、実際に住居が建てられていた場所に複数の復元住居が建てられており、当時の村の景観をしのぶことができます。
1号住居
復元住居のうち、「1号住居」は遺跡の森で見つかった中で最大の竪穴住居を復元したものです。内部は約10m四方の広さがあり、森の中でひときわ存在感のある建物となっています。

続縄文の村・縄文の村

 縄文時代の集落跡が台地の北側から東側にかけて広がっています。また、台地の北側部分では続縄文時代の竪穴住居跡も見つかっています。
 縄文時代・続縄文時代の竪穴住居は円形または楕円形の掘り込みをもっていましたが、この掘り込みの跡が埋まりきらずに窪みとなって残っています。
 縄文時代・続縄文時代の竪穴住居跡は遺跡の森で100基以上あると見られます。

写真2-1
写真2-1
写真2-2
写真2-2

 遺跡の中を注意してみると、円形・楕円形の皿状の窪みがところどころにあります(写真2-1)。
 この窪みが竪穴住居の掘り込みの跡です(写真2-2)。いずれも縄文時代~続縄文時代の住居の跡で、1500年以上前につくられたもので、古い年代のものとしては縄文時代中期末、約4500年前の竪穴住居跡が複数あったことが分かっています。これらの住居跡は擦文時代の四角い住居跡に比べるとあまりはっきりしない形をしています。

「続縄文の村」の復元竪穴住居
「続縄文の村」には続縄文時代の復元竪穴住居が1軒建てられています。続縄文時代前半・1~2世紀ころの竪穴住居を復元したものです。

トイカウシチャシ跡

トイカウシチャシ跡

 アイヌ文化期のチャシ跡と推定されている遺跡です。ただし、見つかっているのは台地の突端部を区画する堀の跡だけで、厳密にいつ頃つくられたものかは分かっていません。

 埋まりかかった堀の跡は現在でも見ることができます(写真中ほど、左右に走る段差)。
チャシとしては非常に小規模なもので、堀で区画された部分の広さは長さ約13m、幅5~7m程度しかありません。

 現在「ところ遺跡の森」がある北見市常呂町栄浦地区はアイヌ語では「トイカウシ」という地名で呼ばれていました。「トイカウシ」とはアイヌ語で「そこを渡る」という意味で、サロマ湖に関係のある地名と考えられます。ここではそのアイヌ語の地名をとって「トイカウシチャシ」と呼んでいます。

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FAX:0152-54-3538
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