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平成27年3月14日、ところ遺跡の森では骨角器作り体験教室を実施し、多数の市民の方のご参加をいただきました。
人類が作った道具で最も古い歴史をもつ石器は300万年以上前から使われていたとされていますが、動物の骨や角で作った道具である骨角器はこれに次ぐ歴史があり、アフリカでは150万年くらい前にはすでに使われていたとされています。
こうした骨角器は常呂の遺跡でも数多く見つかっています。数千年前の縄文時代のものもありますが、最もよく見つかっているのは約千年前のオホーツク文化のものです。今回写真を載せたのはその1つ、骨製の釣針です。なかなか完全な形では見つからず、写真のものも欠損しているのですが、本来は「U」字形をしていました。実物は非常に大きく、写真右のもので長さ約16cmもあります。オホーツク海にはオヒョウという体長1~2m以上になるカレイの仲間がおり、こうした巨大魚を獲ったものと推測されています。常呂に住んだ人々が大昔から海の幸に恵まれていたことを示す証拠の1つです。(2015年4月)
常呂では古くから遺跡の存在が知られており、早くも明治時代には発掘調査も行われています。一方、遺跡を残した大昔の人も、自分よりさらに昔から人が住んでいたということは知っていたようです。
常呂には7~9世紀頃にオホーツク文化の遺跡が残されており、竪穴住居の跡も多数見つかっています。オホーツク人の住居には、狩で獲った動物をまつる「骨塚」と呼ばれる祭壇(さいだん)がありました。実はこの「骨塚」から、オホーツク人より昔の土器が見つかることがあります。
下の写真は約4500年前に作られた縄文土器ですが、オホーツク人の住居の「骨塚」に置かれたヒグマの骨などと一緒に見つかりました。この住居は縄文時代から人が住んでいた場所に建っていましたので、地面を掘ったときなどに偶然見つけたと思われます。オホーツク人が自分より3000年以上前の土器をたまたま「発掘」し、大事に家の中に置いていたわけです。もちろんどれほど古いかまでは知らなかったでしょうが、古いものを拾ってきて大切にする点では「考古学者」のはしりと言えるかもしれません。(2015年12月)
オホーツク人の住居で見つかった縄文土器
土器と一緒に見つかったヒグマの骨の一部
遺跡からは用途がよく分からないものが見つかることがあります。今回は遺跡の館の展示品の中から、そうした少し不思議なものをご紹介します。
写真1は刀の鍔(つば)の模造品です。割れて半分くらいが残っています。北見市常呂町栄浦地区のライトコロ川口遺跡で見つかったもので、14~15世紀頃、アイヌ文化のものと考えられています。素材は石で、本物の鍔と比べるとサイズが小さく、実際に刀に装着するものではなさそうです。常呂町岐阜地区のST-04遺跡では本物の刀の鍔が見つかっていますが(写真2)、模造品も元はこれに似た形だったと推定されます。
なぜこのようなものが作られたのか、はっきりとは分かりませんが、次のようなことが想像できます。アイヌの人々にとって、刀は単なる武器ではなく、霊力のある宝器でもありました。刀の鍔だけでも災いを退ける力があると信じられており、護身用として首飾りに使うこともあったようです。ただ、本物の鍔は高価な貴重品でした。このため、本物に代わって霊力を発揮することを期待して作られたのが石製の模造品だったのではないかと考えられます。小さくあまり目立たない展示品ですが、色々な願いを負って作られたものだったのかもしれません。(2016年12月)
【写真1】鍔の模造品(ライトコロ川口遺跡)
【写真2】刀の鍔(ST-04遺跡出土)
斜里町の遺跡で8世紀の日本で発行されたお金「神功開宝(じんぐうかいほう)」が出土したことが報じられました。日本の古代のお金が発見されたのは、オホーツク地域では初めてのことです。ただし、開拓以前の北海道では基本的にお金を使う文化がなく、物々交換が行われていました。この神功開宝を手にした人も、その価値は分からなかったのではないかと言われています。
そうした状況でも、特に14世紀以降のアイヌ文化の遺跡では、お金がしばしば発見されています。常呂の遺跡でも「永楽通宝(えいらくつうほう)」や「元豊通宝(げんぽうつうほう)」(写真)など、中国で造られたお金が見つかっています。アイヌの人々はこうしたお金を装身具の一部などとして使っていました。
このうち元豊通宝は11世紀後半に造られたものです。中国では輸出用に古い時代のお金が多く使われたため、発行から年数の経ったお金も大量に日本に入ってきていたようです。この元豊通宝も発行から数百年後に常呂へ持ち込まれた可能性が高いと思われます。常呂が東アジアをめぐる交易網の一端にあったことを物語る貴重な資料と言えるものです。(2017年1月)
常呂町岐阜地区発見の「元豊通宝」。文字は篆書(てんしょ)という特殊な書体が使われたもので、上・右・下・左の順に読む。
ところ遺跡の館の展示資料のうち、一風変わった土器があります。擦文時代(約1,000年前)のコーナーにある須恵器(すえき)という土器です。
展示室にある他の土器とくらべると、灰色で硬く焼きしまっているという特徴があります。この特徴は窯の中で焼かれたことを示しています。
須恵器はその製作技術を含め、朝鮮半島から日本におよそ1,500~1,600年前に伝わりました。東日本における須恵器を焼く技術は、およそ900~1,000年前に青森県まで伝わると、北海道へはやってきませんでした。
展示室にある須恵器も分析の結果、青森県五所川原窯跡群(あおもりけんごしょがわらようせきぐん)で作られた須恵器と判明しました。おそらくお酒のような液体を入れたと考えられる須恵器ですが、常呂まで運んだことを考えると苦労が偲ばれます。(2017年9月)
展示されている須恵器
みなさんは続縄文時代(約2,000年前)という時代を聞いたことはあるでしょうか。
本州では弥生時代・古墳時代と同じ頃に、主に北海道を中心にみられる縄文文化の生活スタイルなどを続けたため続縄文時代あるいは文化としています。
では、本州と関わりがなかったかというと、そうではありません。
下の写真のガラス玉は常呂川河口遺跡のピット700という続縄文時代のお墓からみつかりました。この時代のガラス玉は主に輸入したものか本州で作られたものに限られます。
また、お墓からは後北(こうほく)C2D(シーツーディー)式土器という、主に道央で使われていた土器と一緒に納められていました。ほかに同時期のお墓から鉄製品がみつかっています。
この頃の続縄文時代の人たちは、直接かどうかは不明ですが交易や交流によって手に入れた珍しいものをお墓にいれていたと考えられます。(2018年4月)
【ピット700出土 ガラス玉】
今回は展示案内の際によく聞かれる質問として炭になった資料についてお話いたします。
下の写真はご存知の方も多いと思いますが、オホーツク文化貼付文期(約1,100年前)のフクロウの彫刻です。これは元々木製の彫刻でしたが、火災に巻き込まれたことで炭になっています。単に炭化物といいますが、炭化したことで900年近く形を保ち続けています。植物などの有機物のままでは腐って分解されてしまいますが炭化することで無機物に限りなく近い状態になり長期間形を残します。無機物になれば腐って分解されることはありませんが炭化物が完全な形で出土することはまれで、写真のフクロウ彫刻も出土した時には下側部分は無く、どのような道具であったのかは不明です。また、炭化物になっても部分的に有機質があれば腐りますし、蒸し焼きではなく燃焼すれば灰になり、水に長期間触れていれば崩れて泥炭のようになります。出土後の保存処理を忘れてもバラバラに崩れていきます。
石器や土器と違い派手さはありませんが貴重な資料のため博物館で炭化物を見る機会がありましたら、ぜひ注目してみてください。(2018年12月)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居出土フクロウ彫刻付柄(正面)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居出土フクロウ彫刻付柄(側面)
大昔の人々はしばしば石に穴を開けて首飾りなどのアクセサリーを作っています。常呂でも、約2500年前(縄文時代の終わり頃)の遺跡からヒスイ製の首飾りが見つかっています。
首飾りには通常、ヒモを通すための穴が開けられています。ヒスイは宝石の中では硬くないほうですが、鉄製のナイフ程度では簡単に傷が付かないくらいの硬さがあります。現在では鋼鉄のドリルを使えば容易に加工できますが、縄文時代にはそのような便利な道具はありません。
ではどうやって穴を開けたのでしょうか。一般には次のような方法が考えられています。研磨剤として砂をかませ、そこに木や竹の棒の先を当てて回転させるというものです。砂で削られ、少しずつ穴が開いていくことになります。実際に穴の中をよく観察すると、穴の内側に何かを回転させたような同心円状の傷が残っていることがあります。
石の硬さや大きさにもよりますが、穴を開けるだけで何十時間もかかったはずです。小さな首飾りも、大変な労力と工夫によって作られていたわけです。(2019年5月)
縄文時代晩期のヒスイ製勾玉(実物の大きさ:右の長さが約3cm)
遺跡の森では多数の土器を展示しています。来館者の方から時々「本物ですか?」という質問を受けることがありますが、展示品の土器は全て遺跡から出土した本物です。
多くの土器は壊れた状態で見つかります。破片をつなぎ合わせて元の形に復元を行いますが、破片が見つからなかった部分は石膏(せっこう)などで補っています。この部分だけは現代の復元ということになります。
「土器の復元のために破片を探すのはどれくらい時間がかかりますか?」というのもよくある質問ですが、実は完形に近い状態に復元できている土器は、ほとんど同じ場所で破片が見つかっています。本来置かれた場所にそのまま埋まっていたり、あるいは割れた土器がまるごとまとめて処分されていたりといった場合です。
一方で、奇跡的にほぼ完全な状態で見つかる土器もあり、つい最近作られたかのように良い状態で見つかることもあります。特に昔の人が穴を掘って埋めておいた土器などは壊れずに残る確率が高くなりますが、土の重みで潰れてしまうことも多いため、完全な状態で残っているものはわずかです。2000年以上昔の土器でも形の残った状態で見つかったものがありますが、これはかなりの貴重品ということになります。(2021年1月)
常呂は北海道の中でも早くから多くの遺跡が知られてきた地域の1つであり、貴重な出土品の存在が知られてきました。このため、北見市外の博物館でも、常呂からの出土品の展示に出会うことがあります。今回はそのうちいくつかをご紹介します。
2015年にリニューアルされた北海道博物館(札幌市)では、北海道の歴史が常設展示で紹介されています。その中に、常呂で発見されたオホーツク文化のラッコ彫像や擦文文化の機織機部品などのレプリカが展示されています。いずれも実物はところ遺跡の館で展示中です。また、旭川市立博物館では、詳細な出土地は示されていませんが、常呂町出土とされるオホーツク土器が1点展示されています。
遠方では、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に常呂(栄浦第二遺跡)出土の縄文土器を貸し出しています。こちらは全部見て回るのに1日かかるほどの大きな博物館ですが、全国各地の縄文土器を紹介する展示コーナーの中で、北海道代表の1つとして展示されています。
現在は世の中が遠くの博物館に出かけようという雰囲気ではありませんが、これらの展示品は常呂から離れた土地でその広報に一役買っているものと言えます。 今後、もしこれらの博物館を訪れる機会がありましたら、ぜひ常呂の出土品を探してみてください。(2021年2月)
サロマ湖が結氷する時期になると、遺跡の森がある栄浦近辺にもアザラシが現れることがあります。岸近くに来ることはあまりないのですが、日によっては、沖の氷上に群れている姿を遠くに見ることができます。と言っても、湖岸からは点にしか見えないくらい遠くにいることが多いですので、アザラシだと分かるように姿を見るには双眼鏡などを用意したほうがよさそうです。
アザラシは脂肪が多く栄養豊富なため、大昔の人々にとっては冬の貴重な食料でした。肉だけでなく毛皮も利用できるため、大変利用価値の高い獲物だったはずです。
アザラシなどを対象とした海での狩猟には銛(もり)が使われました。特にオホーツク文化の遺跡(8~9世紀頃)からは、動物の骨や角から作られた銛頭(もりがしら:銛の先端の突き刺す部分)が数多く見つかっています。銛頭は長い紐を結び付けた状態で柄の先にはめ込んで使われました。銛が獲物に命中すると、紐のついた銛頭だけが柄から外れて獲物に刺さった状態になります。獲物が沈んでしまっても、紐を手繰り寄せれば回収できる仕組みです。
銛頭は一度刺さると獲物から簡単に抜けないよう、様々な形のものが工夫して作られました。上の写真のうち右側の銛頭は、横から見ると先端が二股になっています。この部分に黒曜石などで作った鏃をはめ込んで使われました。紐を付けるため2つの穴が開いており、獲物から抜けないよう逆刺(かえし)が2段付けられています。写真の真ん中と左側の銛頭は「回転式」と呼ばれるものです。側面からみると反り返った形をしており、中程のくびれた部分が紐を結びつける部位です。刺さった後で紐を引くと、獲物の体内で向きが変わって引っ掛かり、抜けなくなる仕組みになっています。
こうした工夫の数々からも、当時の人々にとって海での狩猟が重要であったことが分かります。(2022年2月)
3月15日に、ウェブサイト「北海道デジタルミュージアム」が公開になりました。北海道内の博物館・美術館等の施設情報や、そこに収蔵されている資料の情報が集められたサイトです。「ところ遺跡の森」からも情報の掲載を行っており、所蔵資料や展示物など約80点を紹介しています(2022年3月末時点)。代表的な資料を網羅するかたちで写真と解説を掲載していますので、常呂の遺跡とその出土品について、より詳しく知っていただけるものと思います。
また、遺跡の森に限らず、道内各地の施設が掲載されていますので、博物館・美術館めぐりの参考にもなります。今後も情報の追加掲載が行われていく予定ですので、以下のリンクからアクセスしてみてください。
この「ところ遺跡の森」のウェブサイト内でも、遺跡の森の展示品や所蔵資料についてページを設けてご紹介しています。
その他、以下のウェブサイトでも常呂の遺跡や出土品についてご紹介しています。合わせてご覧ください。
「文化遺産オンライン」は文化庁が公開しているサイトです。国宝・重要文化財など、国や地方自治体の指定文化財の紹介がメインですが、それ以外の文化財も多数掲載されています。(2022年4月)
11月18日、国の文化審議会は、北見市ところ遺跡の森で収蔵している「常呂川河口遺跡墓坑出土品」を重要文化財に指定することについて、文部科学大臣に答申しました。今後、官報告示により正式に指定されると、北見市で唯一となる国の重要文化財が誕生することになります。
今回の指定対象となる出土品については、以下のページで概要をご紹介しています。
今回の指定の対象となった出土品は、文化審議会の中の専門調査部会で評価・検討を行うため、その一部が文化庁に貸し出されています。今回、新しく国宝・重要文化財に指定されることになったものは、令和5年初め頃に、東京・上野の東京国立博物館にて展示が行われる予定です。
それ以外のものについては、ところ遺跡の館で展示を行っています。今後も、貸出品の返却に合わせて、皆様に見ていただけるよう展示を行っていく予定です。(2022年12月)
2022年12月号で、「常呂川河口遺跡墓坑出土品」の重要文化財指定についてお知らせしました。ところが、北海道に住んでいると、「重要文化財」というものに、あまり接する機会はないと思われます。そこで、今回は重要文化財とはどんなものか、についてご紹介したいと思います。
重要文化財については、「文化財保護法」という国の法律で定められています。この法律では、文化財は日本の歴史や文化の理解に欠かせない、貴重な国民共有の財産とされています。ここでいう文化財には、一般的な財産・宝物のようなものだけでなく、技術、芸能や動植物、景観など幅広い分野のものが含まれます。その中で、重要文化財の指定対象となるのは建造物・美術工芸品です。美術的な価値や技術的な特徴のほか、歴史的・学術的な評価も加えて、価値の高いものが指定されることになります。
重要文化財の美術工芸品は、今回指定されることになったものを含めると、全部で10,873件になります。かなり大量にある、と思われるかもしれませんが、その所在地は一部地域に集中しており、東京・京都・奈良・滋賀・大阪の5都府県に7割以上があります。これに対し、北海道にあるのはわずか30件です。さらにオホーツク管内に限ると、遠軽町の白滝遺跡群出土品(今回、国宝に指定されることになりました)と常呂川河口遺跡墓坑出土品の2件だけ、ということになります。重要文化財の建造物も、オホーツク管内では旧網走監獄だけですので、この地方で見ることができる重要文化財はごく珍しいものです。(2023年1月)
前回まで「常呂川河口遺跡墓坑出土品」の重要文化財指定についてお知らせしてきました。今回からは指定対象品について、いくつかご紹介していきたいと思います。
「常呂川河口遺跡墓坑出土品」の指定対象品は、全部で1,805点あります。多種多様な出土品の組み合わせが分かる、という集合的な価値が評価されたものです。
その中から今回は、「人面模様のある土器」(写真)をご紹介します。石器と11個の土器をまとめて埋めた墓から見つかったもので、縄文時代晩期・約2500年前に作られたものです。壷形の土器で、括れた部分より上に、目や鼻らしき模様が描かれており、人や動物の顔を表現していると考えられています。胴部には渦巻き形の文様が描かれ、また部分的に残る塗料から、元は文様が赤く塗られていたことが分かります。
顔のある縄文時代の遺物としては土偶が有名ですが、北見市とその周辺では出土例がほぼありません。顔が描かれた土器も他に例がなく、大変珍しいものです。一緒に見つかった土器にも、特殊な形や華やかな文様のものが含まれています。日常的に使う土器とは別に、祭りや葬送用の土器として特別に作られたものと考えられます。(2023年2月)
今回は、「常呂川河口遺跡墓坑出土品」の中からヒスイ製の玉についてご紹介します。写真は縄文時代晩期の墓である782号土坑から見つかったもので、全てヒスイ製です。
良質のヒスイは採れる場所が少なく、北海道で見つかるものは新潟県西部の糸魚川産であると推定されています。糸魚川産のヒスイは全国各地の遺跡で見つかっていますが、常呂川河口遺跡は、産地から最も遠い出土地点の1つです。
今回紹介する墓で見つかっている玉には2種類の形があり、細長い形の勾玉2個と、円形の丸玉6個があります。どちらも穴があけてあり、紐を通して首飾りなどに使われたと考えられるものです。勾玉は、元は動物の牙に穴をあけたものを起源とする説が有力です。しかし、そこから多様な形のものが作られるようになりました。2つ組で見つかる場合は、この墓のように、形の違う組み合わせになっていることが多いです。
このヒスイ製の玉は、漆塗りの櫛の断片と一緒に、墓に納められていました。ウルシの木は本来、北海道に自生しないことから、こちらも本州方面から入手されたものと考えられます。いずれも遠方から入手した珍しい品なので、ムラの中でも特別な地位の人の持ち物だった、と考えられています。(2023年3月)
今回は、「常呂川河口遺跡墓坑出土品」の中からコハク製の玉についてご紹介します。コハク玉は、北海道東部を中心に、続縄文時代前半の遺跡で発見されます。穴を開けて紐で連ね、首飾りとして使われたようです。
常呂川河口遺跡の出土品には、発見されたコハク玉の数が多く、形の種類も豊富な点に特色があります。玉の基本的な形は円盤状ですが、原石の形をそのまま使った楕円形のものや、加工して星形にしたものなどもあります。
コハクは植物の樹脂が化石化してできた宝石であり、産地は限られています。国内では岩手県久慈市が有名ですが、北海道の遺跡から見つかるものは主にサハリン産と考えられています。いずれにしても容易に手に入るものではなく、当時としては大変な貴重品でした。墓を発掘した結果からは、誰でも持っていたのではないことが分かっています。コハク玉がある墓は、こうした貴重品を入手できる地位の高い人のものだったと推定することができるわけです。中には、1つの墓から2000点以上のコハク玉が見つかった例もあります。これは当時の北海道全体で比べても豪華なものと言え、この時代の常呂が大変栄えていたことを窺わせるものです。(2023年4月)
前々回にサハリン産のコハク玉について扱いましたが、これは続縄文時代前半の墓から見つかるものでした。続縄文時代後半になると、コハク玉と入れ替わるように鉄製品とガラス玉が墓に入れられるようになります。
当時の北海道では製鉄は行われていなかったため、鉄製品は道外から入手してきたものと見られます。続縄文時代後半には、北海道でも鉄製の刀子やナイフが使われ始めましたが、数はまだ少なかったようです。
ガラス玉は水色と濃青色の2種類が見つかっています。成分分析によって中国大陸産の原料が使われていることが推定されており、やはり道外に由来するものと考えられます。本州の古墳時代遺跡でも類似したガラス玉が見つかっていることから、本州方面から持ち込まれた可能性が考えられるものです。
これらは、道外から入手したという点でコハク玉と同様に貴重品だったと考えられるものですが、コハク玉のように1つの墓で大量に見つかることはありません。少量ずつしか入ってこない、非常に入手困難なものだったことが窺われます。また、こうした貴重品が死者のために使われていることから、死者が大変尊重されていたことが分かります。(2023年6月)
常呂川河口遺跡墓坑出土品の中から、今回は土器についてご紹介したいと思います。
墓坑出土品には数々の土器が含まれます。中には、デザインや文様において、美術品として見ても優れたものもたくさんあります。特に注目したいのは、縄文時代晩期に作られた「幣舞式」と呼ばれる土器群です。土器のデザインには年代・地域によってある程度パターンがあり、そうした土器群をまとめて「〇〇式土器」と名前が付けられています。こうしたパターンがあるのは、縄文時代の土器が一定のルールに基づいて作られていたからと考えられます。
とは言え、個々の土器はルールの枠内で個性を発揮しつつ作られていました。以前ご紹介した「人面模様のある土器」(2023年2月)もその1つですが、中にはかなり奇抜なデザインや複雑な文様のものもあります。これらの文様はきれいな対称形にはならないものの、不思議と調和がとれて見えます。
渦巻きのモチーフが繰り返し用いられるのも、この時期の土器の特徴です。こうした文様には、何らかの象徴的な意味があったのだと考える研究者もいます。しかし、なぜこうした文様があるのか、本当のところを知るのはもはやほとんど不可能でしょう。表面的に何かと似ている、ということは指摘できたとしても、縄文時代の人もそう考えていたのだ、と証明できるわけではありません。
そうしたわけで、文様の意味については、今となっては想像してみるしかないところです。お墓から見つかったものであることを考慮するならば、もしかすると巻きのように循環するイメージは生命の再生を祈るものだったのかもしれません。(2023年7月)
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