MENU
CLOSE
8月下旬から9月上旬にかけて、森林公園近くに位置する大島2遺跡で発掘調査が行われました。
今年は昨年、上層部分を調査した竪穴住跡(3号住居)の継続調査が実施され、住居が使われていた当時の床面にあたる範囲が調査されました。
この住居は約900年前、擦文時代と呼ばれる時代のもので、火災で焼けており(住居を放棄するときに意図的に焼いたとも言われています)、床面からは炭になった状態の木材が多数発見されました。その中には細長い丸太材を平行に並べたものも見つかっています(写真)。この時代の住居では、壁際にベッド状の板敷きが作られるのですが、この丸太を並べた形のものもベッドとして利用されたものかもしれません。
今回、回収された資料の分析はまだこれからの段階です。今後、大昔の常呂の暮らしが少しずつ明らかになっていくことでしょう。(2015年10月)
四角形をした900年前(擦文時代)の竪穴住居跡
住居跡で見つかったベッド(?)
大島2遺跡は常呂川東岸の丘陵上にある遺跡で、平成21年度から毎年発掘調査がおこなわれています。今回、これまでの調査成果の一部が、『擦文(さつもん)文化期における環オホーツク海地域の交流と社会変動:大島2遺跡の研究(1)』として東京大学常呂実習施設により刊行されました。
今回の報告書では竪穴住居跡2基の調査成果が掲載されています。2基の住居はいずれも建物が火災で焼けていることが分かっており、使わなくなった住居を意図的に燃やした可能性が指摘されています。擦文時代の建物は現存しないため、その構造には謎も多いのですが、焼け落ちた屋根材の状態から大島2遺跡では茅(かや)の上に土をかぶせていたことが推定されています。また、炭化した屋根材から年代測定が実施され、12世紀前半頃の可能性が高いという結果が示されました。
住居内からは土器など(写真1)の生活用品も見つかりました。出土品の中でも少し変わったものとしては、長さ約21cmの大きな木製フォークがあります(写真2)。用途は不明ですが、サハリンアイヌの「アイヌ葱(ねぎ)を煮るフォーク」によく似ているとのことです。
この報告書は市立図書館で閲覧いただけるほか、インターネット上(東京大学学術機関リポジトリ内)でも公開される予定です。(2016年6月)
2016年も8月下旬から9月上旬にかけて、大島2遺跡(森林公園の近く)で発掘調査が行われました。
約900年前の擦文(さつもん)時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の跡が継続的に発掘されています。3つの住居跡を並行して調査中でしたが、このうち昨年から継続して発掘されていた1つが床面まで調査が完了しました。屋根を支えるための柱穴が床面の四隅で見つかったほか、杭を立てた小さな穴(壁際に作り付けのベッドなどを設置したと推定される)が並んでいるのも見つかりました。
こうした竪穴住居の床や柱・杭の穴は土に掘り込まれており、遺跡ではそれが上からの土で埋もれた状態で見つかります。土と土なので区別が難しそうですが、床や柱は地下の固い赤土を掘り込んでおり、それが黒っぽい土で埋まっているため、土の色や質の違いを探って見つけているわけです。発掘調査はこうした細かい作業を繰り返して行われています。(2016年10月)
赤土を掘り込んで作られた住居跡
住居内につくられたカマドの跡
カマドは作り替えが行われており、跡が2つ見つかった。
2017年も8月下旬から9月上旬にかけて、大島2遺跡(森林公園の近く)で発掘調査が行われました。
約900年前の擦文(さつもん)時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の跡が継続的に発掘されています。
2017年は4号竪穴住居と5号竪穴住居の調査を行いました。
4号竪穴住居からは、炭化材(焼けて炭になった家の柱など)が多数と擦文土器(下の写真)、紡錘車(糸をつむぐ道具)といった道具のほか、カマド(食べ物を煮炊きするための施設)が2基見つかりました。
炭化材の広がりと土製品(粘土から作ってある道具。土器など)を写真と微細図(出土したものを詳細に図面にすること)で記録しました。
4号竪穴住居のカマドや柱などの詳細な調査は来年度以降継続して行う予定です。
5号竪穴は表土を除去し、土器片が数点確認されました。こちらも本格的な調査は来年度以降になります。(2017年10月)
2018年も8月下旬から9月上旬にかけて、昨年に引き続き大島2遺跡(森林公園の近く)の4号住居の発掘調査が行われました。
4号竪穴住居で昨年検出したカマドや柱穴などの住居に伴う遺構と、炭化材(焼け落ちた住居の建築資材が蒸し焼きになり炭化したものなど)の記録を中心に行い、特にカマドではカマドの構造を知る上で貴重な発見がありました。
下の写真はカマドの袖(そで)という土器を支えるかまくら状の部位の片側になりますが、右の赤く焼けた部分はカマドの内側つまり毎日火をおこしていた場所になります。よく見ると土器片のように形のしっかりした粘土が張り付いています。これはカマドの構築材というカマドを丈夫にするため内側に張り付けられた土製品様のものです。写真中央の黄色い部分は生焼け状の粘土です。赤くなっている部分も本来はこのような色をしていたのでしょう。そして写真の左側にある平たい石これはカマドの袖石(そでいし)と呼ばれるもので心材(骨組みのようなもの)としての役割があったと考えられています。
このようにサンドイッチ状に内側から、構築材+粘土+平石というようにはっきりとした痕跡が残るカマドは少なく、貴重なデータが増えたといえるでしょう。(2018年10月)
毎年夏に行われている東京大学考古学研究室による大島2遺跡の発掘調査が令和3年も行われました。発掘現場の見学会も企画していたのですが、緊急事態宣言の発令があったため中止になりました。今回はこの発掘調査についてご紹介したいと思います。
大島2遺跡は、常呂森林公園の近くの山林の中に広がる遺跡です。現在でも地表に竪穴住居跡が残る遺跡であり、東京大学によって2009年から継続的に調査が行われています。これまでに4基の竪穴住居跡の発掘が完了し、現在5基目の発掘が行われています。
これまで発掘された住居跡は、いずれも12世紀、擦文時代の終わり頃のものだったことが分かっています。現在発掘中の住居跡もほぼ同時期のものだったことが、発見された土器から分かりました。また、住居跡の床面で用途不明の長方形の穴の跡が見つかりました。擦文時代には住居跡が墓として利用された事例があり、この穴も同様のものだった可能性があります。今後、内部から回収された土の分析などを含め、詳しく検討される予定です。
調査について、もう少し詳しい情報を「ところ遺跡の森」ホームページにてご紹介しています。関心のある方はそちらもご覧ください。(2021年10月)
大島2遺跡は、常呂森林公園の近くの山林の中に広がる遺跡です。ここでは、東京大学常呂実習施設による発掘調査が2009年から行われてきましたが、今年でひとまず調査が終了しました。遺跡には現在でも数十基の竪穴住居跡が地表に残っていますが、このうち5基の発掘が行われました。それ以外は保存区域として残されます。
発掘された住居跡はいずれも12世紀・擦文(さつもん)時代の終わり頃のものです。この時代の遺跡は、常呂では海岸部の砂丘などで多く見つかっていますが、大島2遺跡はひときわ標高の高い丘の上にある点に特色があります。5基の住居は全て建物が火災に遭ったものでした。このため、通常であれば完全に失われてしまう木材や植物片が炭化した状態で出土しました。住居の建材の他、木製品の断片も見つかっています。さらに、住居に設けられたかまど付近からは、雑穀や豆類の断片も発見されています。
上の写真は、今年度発掘された5号竪穴の調査最終段階の写真です。ほぼ正方形の竪穴の形がよく分かります。また、その内側に正方形に並ぶ形で、4箇所の柱穴があります。上方に2箇所、出っ張りがあるのは「かまど」と「煙道」(煙を外に出すためのトンネル)です。左右の壁に沿って、2列平行して並ぶ小さな穴がありますが、これはベンチ状の構造があった跡ではないかと推定されます。
この時代の北海道については文献による記録等はないため、こうした発掘調査によって生活の様子が少しずつ明らかにされています。大島2遺跡の調査成果については、これまで東京大学より2冊の本が刊行されていますが、最後の部分の成果についてはこれから整理が行われます。今後のさらなる分析が待たれるところです。(2022年10月)
お問い合わせ |
---|
北見市教育委員会社会教育部 ところ遺跡の森 郵便番号:093-0216 住所:北海道北見市常呂町字栄浦371番地 電話:0152-54-3393 FAX:0152-54-3538 |