ところ遺跡の館展示案内:縄文時代

縄文土器(撮影:佐藤雅彦氏)
【縄文土器(撮影:佐藤雅彦氏)】

縄文文化

 約15000~11000年前にかけて起こった気候変動により、氷河期が終わって温暖な時代が始まりました。こうした環境変化によって人々の暮らしも変わり、広い範囲を移動する生活から定住的な生活へと変化していきました。またこの頃から粘土を焼いて作ったうつわ、土器が使われるようになりました。この頃の土器は、表面に縄を転がして模様をつけた土器が多く、そのため縄文土器と呼ばれています。そしてこの縄文土器が使われた時代のことを「縄文時代」と呼んでいます。
 現在北海道で見つかっている最も古い土器は約14000年前かそれ以上前のものとされています。しかし北海道では旧石器時代と縄文時代との間の時期は遺跡が少なく、このため北海道の縄文時代の始まりについては、はっきりとしたことは分かっていません。
 1万年以上にわたって続いた縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時期に区分されていますが、北海道で多くの遺跡が残されるようになるのは約10000年前より後、早期以降になります。長い縄文時代には、暮らしや文化にさまざまな変遷が見られました。

石刃鏃文化

 縄文時代早期、約8000年前に栄えた文化で、石を連続的に細長く打ち割って作った石刃(せきじん)と、その石刃の一端に尖らせる加工をして作った矢じり(石刃鏃:せきじんぞく)が特徴となっています。北海道を含む東北アジア一帯に類似した石器を作る文化が広がっていることから、大陸からの影響下に形成されたものと考えられています。

トコロチャシ跡遺跡出土の石刃鏃

【写真1-1 トコロチャシ跡遺跡出土の石刃鏃】

トコロチャシ跡遺跡出土の石刃

【写真1-2 トコロチャシ跡遺跡出土の石刃】

 トコロチャシ跡遺跡では長さ10cm以上の石刃がいくつも見つかっています。薄く、まっすぐで細長い石刃を作るのはかなり難しく、熟練の技が必要です。石刃はそのままナイフとして使えるほか、加工して矢じりなどを作る材料ともなっていました。

気候の温暖化と貝塚

 縄文時代前期から中期は、気候が総じて現在よりも暖かかったと考えられています。そうした中、縄文時代中期の終わり頃には、北見市内にも「貝塚」が残されました。貝塚とは大昔の人のゴミ捨て場のことで、特に貝殻が多く捨てられていることからこのように呼ばれています。

 北見市常呂地域にあるトコロ貝塚は、オホーツク地域でも最大級の規模をもつ貝塚です。トコロ貝塚では当時の人が食べたと考えられる貝の貝殻が数多く見つかっています。カキ、ホタテガイなど、現在の北海道でお馴染みのものも多く見つかっていますが、ハマグリのように現在の北海道の海では寒すぎて生き残ることのできない貝も見つかっており(写真2-3)、当時のオホーツク海は今よりも温暖な気候であったことが分かっています。

トコロ貝塚で見つかったマガキ

【写真2-1 トコロ貝塚で見つかったマガキ】

トコロ貝塚で見つかったホタテガイ

【写真2-2 トコロ貝塚で見つかったホタテガイ】

トコロ貝塚で見つかったハマグリ、ヤマトシジミ

【写真2-3 トコロ貝塚で見つかったハマグリ、ヤマトシジミ(右下)】

さまざまな縄文土器

 長い縄文時代には、時期によって作られる土器にも変化がありました。形や文様などのデザインには時期によって特徴があり、逆に土器の形や文様などから作られた時期を推定することもできます。この時代の土器は総称して「縄文土器」と呼ばれていますが、中には縄文が全く使われていないものもあります。

縄文時代前期の土器

【写真3 縄文時代前期の土器】

 北海道東部地域においては、縄文時代早期・石刃鏃石器群の頃には平底の土器が多く見られましたが、縄文時代前期には尖底または丸底の土器が作られるようになります(写真3)。

押型文の土器

【写真4-1 押型文の土器】

縄文の土器

【写真4-2 縄文の土器】

 縄文時代前期後半から中期・後期初頭にかけては、円筒形で分厚い土器が多く作られました。中でも前期後半から中期前半の土器は文様の付け方が独特で、木の棒に彫刻をし、それを土器の表面に転がすことによってパターン模様を付ける「押型文(おしがたもん)」という文様のもの(写真4-1)が多く作られていました。中期後半になると似たような形で縄を転がした縄文をもつ土器(写真4-2)に変化していきます。

 常呂地域やその周辺地域では、縄文時代の中でも中期後半から多くの遺跡が残されるようになり、多くの人々が暮らすようになったことが分かっています。

縄文時代晩期の墓に副葬された土器
【写真5 縄文時代晩期の墓に副葬された土器】

 縄文時代後期になると、一転して気候が寒冷化し、遺跡が非常に少なくなります。一方でこの頃から、用途に応じた土器の作り分けが進み、さまざまな形の土器が作られるようになっていきました。

 縄文時代晩期には、土器の形や文様などの装飾の多様化がさらに進み、華やかなデザインの土器が多く作られる時代になります。

 写真5はこの頃のお墓に埋められていた土器です。このお墓では11個もの土器が埋められていました。一部に赤く着色された痕跡があり、中には人の顔をイメージさせる模様の土器もあります。

縄文時代のお墓と副葬品

晩期の墓に副葬された勾玉

【写真6 晩期の墓に副葬された勾玉】

 常呂地域の遺跡では縄文時代のお墓も見つかっています。特に縄文時代晩期になると、お墓の中に道具や貴重品を一緒にうめる風習が盛んに行われました。このようにお墓の中に入れられた品物のことを副葬品(ふくそうひん)といいます。写真5で紹介した土器も副葬品としてうめられていたものです。

 写真6もお墓から見つかった副葬品の勾玉(まがたま)です。この勾玉にはヒスイという緑色の石が使われていますが、これは常呂から900km以上離れた新潟県糸魚川(いといがわ)で採れるもので、入手困難な貴重品だったと考えられるものです。

遺跡の時代解説(ところ遺跡の館展示案内)

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