「ところ遺跡の森」便り:遺跡の森とその周辺

ところ遺跡の森 住居跡のくぼみについて

 ところ遺跡の森では、史跡整備事業として擦文の村にある復元竪穴住居の再建が行われています。

 その周囲には四角形のくぼみがありますが、これが約1,000年前の家の跡です。

 竪穴住居は地面を掘りくぼめて建てるため、時代によって円形や四角形などの窪みとして現在でも地表からその痕跡を確認することができます。

 北海道では気候や樹種の関係から数千年前の家の跡も埋まりきらないことがあるのです。

 また、堀くぼめた場所は固く締まった粘土層まで達しているため、写真のように雨水や雪解け水が溜まることもしばしばあります(写真の白線内が溜まった雨水)。

 ある意味人口の溜め池となる竪穴の窪みですが、竪穴内は周囲と異なる環境になるため樹木が根を伸ばしにくかったり、草花も成長する種類が制限されたり、竪穴内が一つの生態系を形づくります。

 雨が降った後は竪穴を見てみると新しい発見があるかもしれません。(2017年7月)

住居跡のくぼみ

擦文時代の竈(カマド)

 2017(平成29)年11月1日よりところ遺跡の森の擦文時代(1,000年前)の復元竪穴住居(1号竪穴住居)がリニューアルしてから、来訪者のみなさまより多くの質問が寄せられましたので、その中で一番多かったカマドについてご紹介します。

 カマドは、4世紀末~5世紀初頭に朝鮮半島から日本に伝わった調理施設です。日本ではおよそ奈良時代末から平安時代初頭まで住居に備え付けられていました。

 また、カマドに「竈神」(カマドガミ)を祀る風習も日本に伝わったとされ、古墳~奈良時代の本州では住居を廃棄する際にカマドにお供え用の土器を入れるなど儀式を行っていたようです。

 本州のカマドには煮炊きに使うため土器を引っ掛ける口が、お米用と汁物用(おかず用)の二口あるなど北海道のカマドとは装いが異なります。

 北海道のカマドは一口のもので、1辺が10mを超える大型の住居では2つのカマドがみつかることがあります。

 カマドの焚口(火を焚く場所)をみると、どれくらい頻繁に使用していたかがわかりますが、2つのカマドを同じ時期に使っていた可能性は低いと考えられています。

 ところ遺跡の森の1号竪穴住居は発掘調査で2つのカマドがみつかったため復元した住居内に2つカマドがあります。実際に煮炊きすることはできませんが、この機会にぜひ見に来てください。見学の際は1号竪穴住居の中は暗いので足元に注意してください。皆様のお越しをお待ちしております。(2018年3月)

1号竪穴住居内のカマド(写真左手前と右奥)
1号竪穴住居内のカマド(写真左手前と右奥)

ところ遺跡の森 住居跡のくぼみについて その2

 北見市常呂には史跡常呂遺跡と呼ばれる国指定史跡が点在しています。史跡常呂遺跡の大部分は総計2,700基以上の竪穴住居のくぼみが占めており、

独特な景観としてかつてこの地に多くの人が居住していたことを物語っています。

 竪穴住居は時代や文化によって異なる形の家をたてていたため、くぼみの形をみればおおよその時代がわかります。写真のくぼみはほぼ四角の形をしているため擦文文化の住居(約1,000~800年前)の可能性が高い。という風に判断できます。

 では、なぜ1,000年近く前の竪穴住居がいまだに埋まりきっていないのでしょうか。

 写真をもう一度見ていただくとくぼみの中に落ち葉が溜まっています。本州などでは微生物が落ち葉を分解して腐葉土を形成しますが、北海道では気温が低く雪が積もっていくためなかなか分解されません。さらにくぼみにはよく水が溜まることから余計に腐葉土が形成されにくいのです。

 写真を一見すると毎年かなりの量の落ち葉が竪穴住居に溜まり、腐葉土になるように思えますが、実際には腐葉土になるまでにはかなりの年月がかかります。

 史跡常呂遺跡の竪穴住居は、ところ遺跡の森と栄浦第二遺跡で見ることができます。3月~4月の住居のくぼみの残雪が有名ですが、それ以外の季節や天候にも味わい深い景観がありますのでぜひお越しください。(2018年9月)

住居跡のくぼみについて その2

浜辺の窪みと砂丘

 常呂で窪みと聞いたらピンとくる方はすぐに竪穴住居が思い浮かぶかもしれません。では、下の写真の窪みは何かわかりますか?

 右上にオホーツク海が見切れていることから浜辺の写真で、海岸線に沿うようにポコポコと穴が続いているのが分かるでしょうか。1つの穴は直径1mくらいと小さく竪穴住居ではないことがわかります。

 これは流氷の一部が浜辺に打ち上げられ、潮汐によってたまった砂と海水が流氷のヒビなどを広げ丸く削り、最後に丸い流氷塊が溶けることで丸い窪みになったものです。

 タネがわかれば単なる季節の風景の一部ですが、短い期間に破片とはいえ流氷を飲み込むほどの砂が波によって運ばれているのです。

 史跡常呂遺跡の大部分を形成する砂丘もこうした自然現象により形づくられていることを考えると自然の力強さに圧倒されますね。(2019年4月)

浜辺の窪み

サロマ湖の旧湖口

 3月は暖かい日もあったことから、急な雪解けであちこちの川が増水していました。釧路川流域では洪水のおそれが出たため避難指示が出たところもあったようです。

 春先の増水は、昔の人にとっても無縁ではありませんでした。現在、サロマ湖は人工的に切り開いた2か所の湖口で海とつながっています。しかし、かつてはサロマ湖の東端付近、鐺沸〔とうふつ、鐺は金へんに当という字でも表記されます〕地区(常呂町字栄浦)で海とつながっていました。サロマ湖は細長い砂州で海と区切られていますが、昔は鐺沸付近に砂州の切れ目があり、海への出口となっていたのです。「鐺沸」という地名も「湖の口」を意味するアイヌ語地名「トー・プッ」に由来します。

 現在の人工湖口(第二湖口)は海流で砂がたまってしまうため、繰り返し掘って維持されています。昔の湖口も同じように、冬に埋まって水が流れ出なくなるため、放っておくとサロマ湖の周囲に水があふれてしまったそうです。このため、かつてこの付近に住んでいたアイヌの人々は、毎年春先に湖口を掘り起こして水が流れるようにしていたという話が伝わっています。

 人工湖口ができると水の流れが変わってしまったため、本来の湖口はすっかりふさがってしまいました。湖口のあった場所は今では高さ数メートルの砂州になっており、かつての面影はありません。旧湖口の場所を示す石碑と鐺沸という地名だけがその名残となっています。(2020年4月)

「旧サロマ湖口」の石碑
「旧サロマ湖口」の石碑。鐺沸の集落から湖をはさんで対岸の砂州に立てられています。

常呂の遺跡についての読み物

 新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、ところ遺跡の森の施設も5月6日まで臨時休館することとなりました。そこで今回は常呂の遺跡について書かれた本を少し紹介してみたいと思います。

 考古学は昔のことを調べる学問の1つです。「昔のこと」を書いているのだから古い本でも内容は変わらない、という誤解をされることが時々あります。しかし、新しい研究法や発掘調査で新発見が積み重ねられていますので、さしあたって読むのにお薦めできるのは新しい研究成果が反映された本です。

 常呂の遺跡に関して書かれた最新の本としては2019年刊行された『新北見市史 上巻』があります。常呂だけでなく北見市全体を扱った内容ですが、縄文時代からアイヌ文化にかけては常呂の遺跡が大きく扱われています。

 また、少し古い本ですが、東京大学総合研究博物館特別展図録『北の異界―古代オホーツクと氷民文化』(2002年)は、常呂で発見されたオホーツク文化の遺跡を中心に扱った本です。専門的な部分もありますが、写真も多いので見て楽しめます。図書館でも借りられますが、東京大学総合研究博物館のウェブサイトで読むこともできます。

 本ではありませんが、この「ところ遺跡の森」のウェブサイトでも随時記事を更新していく予定ですので、機会がありましたらご覧ください。(2020年5月)

『新北見市史 上巻』と『北の異界―古代オホーツクと氷民文化』

『新北見市史 上巻』(左)と『北の異界―古代オホーツクと氷民文化』。『新北見市史』にはCD-ROM版もあります。

ワッカ遺跡とワッカの水

 常呂の遺跡の特徴の一つは、現在でも竪穴住居跡が地表に数多く残っていることにあります。そのうち、史跡「常呂遺跡」や、現在東京大学が調査中の大島2遺跡はこれまでもご紹介してきましたが、今回は「ワッカ遺跡」についてとり上げたいと思います。

 ワッカ遺跡はサロマ湖の砂州上で見つかっている唯一の遺跡です。遺跡は「ワッカの水」の西側にある林の中に広がっています。1967年、東京大学によって調査が行われ、78基の竪穴住居跡の存在が確認されました。史跡「常呂遺跡」などと比べると小規模ですが、砂州の中にあるという立地は特徴的です。ワッカはサロマ湖の砂州の中ではただ1個所、飲み水に適した水が得られるため、この場所に集落がつくられたようです。

 ワッカ遺跡の竪穴住居跡は、現在でも地表から分かる状態で残されています。しかしここ数年、付近でクマの目撃情報があることから、残念ながら遺跡のある林の中は立ち入りが禁止されています。現在行くことができるのは「ワッカの水」までです。

 ワッカ原生花園を訪れたら、古代人ものどをうるおしたであろうワッカの水まで、ぜひ足を延ばしてみてください。(2020年9月)

ワッカの水
ワッカの水

 常呂の遺跡のページ内にワッカ遺跡の紹介ページを追加しました。合わせてご覧ください。

ワッカの「オタチャシコツ」

 今回はワッカ遺跡の近くに残るアイヌ語の地名をご紹介したいと思います。18・19世紀ころは、サロマ湖の砂州が常呂・湧別間の主な交通路となっていました。このため砂州上にはワッカ以外にもアイヌ語地名のある場所が点々とあります。

 その中の1つに「オタチャシコツ」と呼ばれる地名があります。これは、現在の第二湖口の東側の場所にあたるものです。
 この地名は「オタ・チャシ・コツ」と3つの言葉から成っています。「チャシ」はアイヌの城や砦のことで、常呂川河口の右岸にある「トコロチャシ」がその代表例です。「オタ」は砂、「コツ」は跡という意味ですので、全体で「砂の砦の跡」という意味になります。

 下の写真の場所がオタチャシコツに相当すると思われる丘です。周辺に続く丘と比べて際立った特徴があるようには見えませんが、地名があるということは通行の際の目印になっていたのでしょう。「チャシ」と呼ばれてはいますが、実はアイヌの人々がチャシとして利用した証拠や言い伝えが残っているわけではありません。北海道チャシ学会による測量調査では、平坦地や溝状のくぼ地があるものの、いずれも自然地形ではないかとされています。海岸沿いにある砂丘をチャシに見立てて付けられた地名なのかもしれません。(2020年10月)

「オタチャシコツ」と推定される丘
【「オタチャシコツ」と推定される丘】

常呂遺跡の竪穴住居跡群

 遺跡の森では、11月前半に木の葉がすっかり色づいたと思ったら、後半にはあっという間に散ってしまい、すっかり冬の様相になます。気候も寒くなってきましたが、遺跡を見るのに向いているのは実はこの季節です。

 遺跡には完全に地面に埋もれてしまっているものばかりでなく、地表に形が残っているものもあります。代表的なのは(この地域にはありませんが)古墳や山城跡などですが、常呂遺跡の竪穴住居跡もそうしたものの1つです。こうした遺跡は、地面を覆っていた草木が冬枯れした後の方が見やすくなってきます。

 国指定史跡である「常呂遺跡」は、遺跡の森の場所だけでなく、かなり広い範囲にわたっています。「西5線」バス停近くに「常呂遺跡」の看板がありますが、その背後の丘の林の中は常呂遺跡でも最も竪穴住居跡が密になっている場所です。この季節には地面がかなり凸凹しているのが分かりやすく見えます。こうしたくぼみの1つ1つが竪穴住居跡です。竪穴住居は地面に大きな穴を掘ってつくられますが、その穴の跡が残っているわけです。

 こうした遺跡は、平面的な写真ではなかなか伝わりませんが、数えきれないほどの竪穴住居跡が広がる様子はなかなか圧巻です。機会があれば一度は訪れてみてください。(2020年12月)

遺跡の森の竪穴住居跡と復元住居
【遺跡の森の竪穴住居跡と復元住居】

常呂遺跡と文化財保護~消滅の危機にあった常呂遺跡

 日本で史跡を保護する法律(史蹟名勝天然紀念物保存法)が成立したのは大正8年のことです。史跡保護の制度には約100年の歴史があることになります。ちょうど100周年となる令和元年度から今年度にかけては文化庁による記念事業も行われ、記念切手の発行などもあったようです。
現在、常呂遺跡は国指定史跡となっていますが、史跡指定されたのは法律ができた年に比べてずっと時代が新しく、昭和49年3月のことになります。とは言え、遺跡の存在は少なくとも明治時代のころには知られており、竪穴住居跡の残る場所として記録がされていました。昭和32年には東京大学文学部考古学研究室により本格的な調査も開始されています。
常呂遺跡が史跡に指定されたのは、遺跡が破壊の危機に瀕したことがきっかけでした。昭和40年代、この地域にも開発の影響が及び、常呂遺跡の一部である「常呂竪穴群」の地区で土砂採取が行われ、遺跡の一部が掘り崩されてしまいました。このことがきっかけとなり、調査を行っていた東京大学を中心に遺跡を正式に保存しようという声が上がりました。こうした経緯があって、常呂遺跡は国指定史跡として保護されることとなったのです。
写真は「常呂竪穴群」の土砂採取場から回収されたと伝わるもので、高さ約60cmある、かなり立派な続縄文時代の土器です。一昔前までは、常呂のあちこちで時折、こうした土器が見つかっていたといいます。(2021年7月)

常呂竪穴群出土と伝わる土器
【常呂竪穴群出土と伝わる土器】続縄文時代前半期、紀元前3~2世紀ころに作られた土器。いわゆる「埋甕」として地中に埋納された土器と考えられます(「ところ遺跡の館」にて展示中)。

続縄文時代人と化石

 常呂川の河口付近には、常呂川河口遺跡と呼ばれる遺跡があり、発掘調査で大昔の竪穴住居跡や墓が多数発見されています。この遺跡で発見された約2000年前(続縄文時代)の墓の1つから、写真のようなものが見つかりました。

巻貝の化石

 巻貝の形をしていますが、実物は石でできています。実はこれは、巻貝の化石なのです。
 常呂川の東側には小高い丘が南北に連なっていますが、ここには「常呂層」と呼ばれる地層が堆積しています。これは、約2000万年前、地質学的には新第三紀中新世と呼ばれる時代に、海の底で堆積した地層です。長い年月をかけてせり上がって陸地になり、現在では海面よりはるかに高い位置になっているわけです。この「常呂層」、場所によっては二枚貝類や腹足類(巻貝の仲間)など、海の生物の化石を含んでいることがあります。たとえば、北見市端野町・森と木の里付近や、網走市・卯原内ダム周辺には、そうした化石が産出する場所のあることが知られています。

常呂層から産出した二枚貝化石
常呂層から産出した二枚貝化石

 常呂川には、周辺から岩石が流れ込んでるので、それに化石が混じっている場合もあります。最初に紹介した化石も、遺跡の近くに落ちていても不思議でないものです。このため、化石がたまたま墓に入ってしまったということもあり得ます。ですが、昔の人も気づいていれば「石でできた不思議な貝」として注目したことでしょう。宝物として墓に入れた、と想像してみたくなる資料です。(2022年7月)

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