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擦文時代(さつもんじだい)は約1400~700年前、本州でいう奈良・平安・鎌倉時代頃に相当します。「擦文時代」とは「擦文土器」を使った時代という意味です。この頃の本州では土師器(はじき)という土器が作られていましたが、この土師器の製法が本州から伝わって作られたのが擦文土器です。土器の表面を仕上げる際に、木のへらで擦って磨いており、その擦痕が文様のように土器の表面にのこっていることから「擦文土器」と呼ばれています。土器だけでなく、石器が姿を消して鉄器が利用されるようになるなど、文化や生活に大きな変化があったことが分かっています。
擦文土器をもつ「擦文文化」の遺跡は北海道全域に広がっており、常呂遺跡で最も多く見つかるのも擦文文化の住居跡です。遺跡の館では常呂遺跡をはじめとする擦文時代の遺跡で見つかった資料を展示しています。
【写真1 擦文土器の深鉢】
【写真2 擦文土器の高坏】
擦文土器は本州の土師器の影響を受けて作られるようになった土器で、続縄文時代までの土器に使われていた縄文が使われなくなるとともに、土器の形も深鉢(写真1)だけでなく、それまではなかった「高坏(たかつき)」(写真2)などが現れます。同じ頃、本州では須恵器(すえき)と呼ばれる土器も作られていました。地面に掘った穴で野焼きする土師器に対し、須恵器は窯に入れて高温で焼成した、より硬質の土器でした。北海道でも須恵器が少数ずつ見つかっていますが、基本的には本州で作られ持ち込まれたものと考えられています。
【写真3 擦文時代住居模型】
擦文文化の住居は、地面に正方形の穴を掘り、その上に屋根を作った構造の竪穴住居でした(写真3)。史跡常呂遺跡では現在でも竪穴住居の穴の跡を見ることができますが、穴が四角い形をしていることから他の時期の住居と見分けることができます。
内部では中央にたき火をする炉を設けるほか、壁際には「かまど」もつくられていました。
【写真4 鞴の羽口】
擦文時代は石器がほとんど使われなくなり、刃物などは基本的に鉄製品となります。この時代にはようやく北海道でも鉄製品の加工を行う鍛冶の証拠が見つかるようになります。その1つが「鞴(ふいご)の羽口(はぐち)」(写真4)です。鉄を加工する際には、加熱する火の勢いを強めるために鞴で空気を送ります。羽口は鞴から火に向かって空気を吹き出す部分にあたります。
なお、擦文時代の北海道では鉄鉱石から鉄をつくる工程は行われず、鉄製品は主に本州方面から入手されていたと考えられています。北海道内ではそうした鉄製品を打ち直す再加工が行われていたようです。
お問い合わせ |
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北見市教育委員会社会教育部 ところ遺跡の森 郵便番号:093-0216 住所:北海道北見市常呂町字栄浦371番地 電話:0152-54-3393 FAX:0152-54-3538 |