常呂の遺跡:常呂川河口遺跡

常呂川河口遺跡

上空から見た常呂川河口遺跡
【常呂川河口遺跡】写真中央、川の蛇行部分の内側が遺跡です(撮影:北見市役所常呂総合支所)。

 常呂川は河口付近で西側に出っ張る形で蛇行しています。この曲がりくねった川の流れに囲まれるような位置で発見されたのが常呂川河口遺跡です。常呂川は一昔前までは大雨のたびに洪水をおこす暴れ川として知られていました。遺跡は標高2~5mの低地に広がり、面積は約11万平メートルにおよびます。
 この遺跡では堤防工事と放水路の掘削工事を行うため、15年間に及ぶ発掘調査が行われました。その結果、縄文時代・続縄文時代・擦文時代・オホーツク文化・アイヌ文化期の長い時代に及ぶ、大規模な遺跡であることが明らかになりました。

遺跡名 常呂川河口遺跡
(TK-73遺跡)
所在地 北見市常呂町字常呂
立地 常呂川河口付近の河岸、標高2~5mの低地上
時代 縄文(早~晩期)・続縄文・擦文・オホーツク・アイヌ
遺構・遺物 竪穴住居跡、土坑(墓など)、送り場遺構
土器・石器・木製品・骨角器・鉄器
現況 常呂川河川敷。河川改修により一部は消滅。
文献 常呂町教育委員会 1996『常呂川河口遺跡(1)』
常呂町教育委員会 2002『常呂川河口遺跡(2)』
常呂町教育委員会 2002『常呂川河口遺跡(3)』
常呂町教育委員会 2004『常呂川河口遺跡(4)』
常呂町教育委員会 2005『常呂川河口遺跡(5)』
常呂町教育委員会 2006『常呂川河口遺跡(6)』
北見市教育委員会 2007『常呂川河口遺跡(7)』
北見市教育委員会 2008『常呂川河口遺跡(8)』

縄文時代~続縄文時代

 常呂川河口遺跡で見つかった最も古い遺物は縄文時代早期のものです。以降、縄文時代前・中・後・晩期、続縄文時代の各時期の土器や石器が出土しています。
 特に縄文時代晩期から続縄文時代にかけての時期については、竪穴住居跡や墓坑も多く見つかっており、特に墓坑は500基以上の数にのぼります。墓の副葬品をはじめ多数の出土品も発見されており、この時代を研究する上で重要な遺跡となっています。

国指定重要文化財「常呂川河口遺跡墓坑出土品」

 縄文時代晩期から続縄文時代の墓坑から発見された副葬品には、特殊なデザインをもつ土器や、北海道外産の素材を使った貴重品など、珍しい遺物が含まれていました。また、特定の墓坑に副葬品を大量に納めるような現象の存在も認められます。
 このような内容をもつ墓坑の出土品は、当時の貴重品の流通のようす、社会や葬送儀礼のあり方などを研究する上で重要な価値をもっています。こうした学術的な重要性が認められ、常呂川河口遺跡の墓坑出土品のうち、代表的な資料が国の重要文化財に指定されています。

ここでは、重要文化財指定品が出土した墓坑の中から代表的なものをいくつかご紹介しておきます。

縄文時代晩期の墓坑(782号土坑)
縄文時代晩期の墓坑(782号土坑)の副葬品出土状況

 写真は縄文時代晩期の墓坑から見つかった副葬品の出土状況です。首飾りにしたものと思われる玉が8点見つかっていますが、これらはいずれも硬玉(翡翠)製でした。硬玉は緑色の宝石であり、新潟県糸魚川付近からはるばる運ばれてきたものとされています。円形の玉だけでなく、勾玉も2点含まれています。
 勾玉の左側に見える赤いものは木製の櫛の断片です。赤い漆塗りで、細かい彫刻が施されています。
《※写真の硬玉の玉と漆塗りの櫛は現在、ところ遺跡の館で展示中です》

続縄文時代の墓坑(470号土坑)
続縄文時代の墓坑(470号土坑)の出土状況

 続縄文時代の墓地では、多数の装身具や土器、石器を副葬品として納めた墓坑がいくつか見つかっています。写真はそうした墓坑の1つで、続縄文時代前半、約2000年前のものです。石鏃やナイフなどの石器、壷形の土器(写真右側)、コハクの玉の首飾り(写真左中央)などが納められていました。この首飾りは2000個以上ものコハク玉を連ねたもので、非常に手間をかけて作られたものです。
 このお墓は他のお墓と比べて副葬品の数や種類が特に豊富であり、族長のような特別な地位の人物が埋葬されたものと推定されています。
《※写真のお墓で見つかった土器・石器・コハク玉などは現在、ところ遺跡の館で展示中です》

オホーツク文化

オホーツク文化の住居跡(15号住居跡)
【オホーツク文化の住居跡(15号住居跡)】

 続縄文時代の後、常呂川河口遺跡には北方から渡ってきたオホーツク人が住んでいました。
 写真の15号住居跡はオホーツク文化の竪穴住居跡で、約1100年前に作られたものです。
 六角形の掘り込みをもち、床には「コ」の字形に粘土が貼られた、オホーツク文化では典型的な形態の住居となっています。壊されてしまっていますが、中央には石で囲んだ炉が設けられていました。この住居は火災で焼けており、土器、骨角器、木製品など各種生活用品や建築部材も残っていました。長軸14m、短軸10mの規模で、4~5家族・20~30人が住めたものと推定されています。
 この住居が使われなくなった後、住居跡の窪みを利用して擦文文化の人がお墓を作っていました(写真中央右上にある複数の細長い穴)。このことからこの遺跡では、オホーツク人が姿を消した後、擦文文化の人がやって来たことが分かっています。
《※15号住居跡から見つかった土器・骨角器・木製品などは現在、ところ遺跡の館で展示中です》

擦文時代

擦文時代の住居跡(177号住居跡)
【擦文時代の住居跡(177号住居跡)】

 オホーツク地域では10世紀頃以降、擦文文化が本格的に進出してきます。常呂川河口遺跡でも、オホーツク人が姿を消した後には擦文文化の人が住んでおり、擦文文化の竪穴住居跡が多数残されました。
 擦文文化の竪穴住居はほぼ正方形の掘り込みをもつ特徴的な形をしています。写真の住居跡は建物が火災で焼けたため、柱や板材などが炭になった状態で見つかりました。

トビニタイ文化

トビニタイ文化の住居跡(137号住居跡)
【トビニタイ文化の住居跡(137号住居跡)】

 擦文文化の進出後、オホーツク人たちの子孫は北海道から完全にいなくなってしまったわけではなく、一部の人々は擦文文化の中に溶け込んでいったと考えられています。その根拠とされているのが、オホーツク文化の要素と擦文文化の要素が融合した文化、「トビニタイ文化」の出現です。「トビニタイ」という名前は、早い時期に発掘されたこの文化の代表的な遺跡、トビニタイ遺跡(羅臼町)からとられています。
 写真はこのトビニタイ文化の竪穴住居跡です。全体的な形は擦文文化の住居と同じ四角形をしていますが、中央の炉にはオホーツク文化の住居の特徴である石囲い炉(擦文文化の住居では作られない)が採用されています。

アイヌ文化

木杭の出土状況
【木杭の出土状況】

 アイヌ文化期には竪穴住居が造られなくなったことから、常呂川河口遺跡では目立った遺構は少なくなります。
 この遺跡でアイヌ文化に関係する発見として特筆されるものとしては多数の木製品があります。木の道具は朽ちやすいため遺跡には残りにくいのですが、常呂川河口遺跡は川に近く、地中の木製品が地下水につかり、空気に触れにくい状態だったため良好な保存状態で残っていました。
 先端の尖った木の杭(写真)のほか、船の部材やサケ漁で使う魚叩き棒など、様々な木製品が見つかっています。

《※出土した木製品の一部は現在、ところ遺跡の館で展示中です》

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